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zoom RSS 「あのころ」 伊藤 聖さん語る 満洲・公主嶺G

<<   作成日時 : 2018/02/23 05:36   >>

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 山本勝郎さんの「中国再訪」の8ミリでは、公主嶺駅にさしかかった列車が、昔のままの古びた泰平橋をくぐるところが映っていて、なつかしかった。ただ、泰平橋から駅前の広場に降りるなだらかなスロープは、すっかり生長した木のかげになっています、よく気をつけてみないと分からないくらいだった。「変わらないでいて、やはり30年の歳月は、それなりのことがあるのだな」というのが、そのときの感じだった。

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 あのころ、このスロープのたもとには、いつも物売りのニイヤがたたずんでいた。季節によって、売るものもさまざまだったが、着ぶくれた防寒服の面袖に手をつつこんで、客を待っていた「タンホーロー」売りは、最も印象深い。赤いサンザシやナツメ実を五つ六つ串にして、それに飴をかけ、高粱のつとに差して売っていた。ガラス細工のように赤い飴がきらきらと光って、ひどく魅力的にみえた。だが、衛生的でないという理由で、一度も買ってもらえず、心残りだった。サンザシの甘ずっぱい味を想像しながら、いつも横目でにらんで通りすぎたものである。このタンホーロー売りは、10月ごろから春の蒙古風が吹きはじめるころまで、どんな寒い日でも、同じ場所を動かなった。
 公主嶺の日本人町は鉄道を隔てて、北側の官公署とその官者、南側の商店街とに別れていた。したがって、南の人たちにとって、この橋は何よりもまず通学、通勤の路でもあった。しかし、北側の私たちにとっては、橋は何か楽しみな世界への通路であった。
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 徳永先生も「回想の満洲公主嶺」で「毎月1回の給料日には、跨線橋を渡って(われわれは単に「橋を渡る」と称していた)満人街に行き、興発園とかいうような名の店で小宴を張るのが習慣になっていたが、基本会費が1円であったことが。今から考えると妙に懐かしい」と書いておられる。この「橋を渡る」楽しみは、だれしも思い出にあることだろう。
あのころ、子どもだった私たちは、「白水」といったカフェや「大公」「いろは」などの料亭には縁がなかったが、母のお供をして「栄百貨店」や「戸井呉服店」へ行った帰りに、鮫島通りの泰平橋寄りの右角にあった氷屋でアイスケーキを買ってもらうのが楽しみだった。
 当時、公主嶺には、そこでしか氷菓は売っていなかった。いまでいうアイスキャンデーだが、割り箸についた色とりどりの氷果が、円筒形でなく角柱形であったことなど、つまらないことを覚えていて、肝心の値段が1本いくらであったか思い出せない。自分の小遣いでは買わなかったせいだろうか。
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 昨年復刻された「南満洲鉄道株式会社十年史」(原書房)によると「付属地ハ即チ河北街ニシテ河北街ハ更ニ鉄道を隔テテ南北ノ両街ニ分タレ諸官街及社宅等ハ鉄道ノ北ニ在リ鉄道ノ南ハ河南街タル支那街ト共ニ商業区ヲ成ス会社ハ線路上ニ陸橋ヲ架設シテ両側ノ往来ニ便ス」とあり、泰平橋が満鉄によってつくられたことが記されている。その時期は明らかではないが、満鉄が付属地の市街整備に力を出した1908(明治41)年からあまり遠くないところのようだ。70年近くの歳月を経て、いまもこの泰平橋が健在であるのはうれしい。

写真】上 泰平橋から見下ろした公主嶺の繁華街、「鮫島通り」。左手前にわが生家・「トミヤ」が・・・。下 大正期の泰平橋。

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