
1930年代の終わり、現在の中国東北部、旧満州育ちの8歳のぼくが初めてみた日本の印象は今も鮮明である。
大連から二日間の船旅を終えて関門海峡で夜が明けると、一望千里の広漠たる平野の満洲の風景とは全く違って、海岸からすぐに山が始まる。
その山々が鬱蒼(うっそう)たる緑に覆われていて、山腹のレールの上を汽車が煙を吐きながら家々の軒をかすめるようにして器用に走っているのにあきれ、そして港や町の通りに人がいっぱいいる光景に驚いた。
「あの人たちはみんな日本人?」
当たり前でしょう、ここは日本なのよと母親が答えたが、波止場をよく見ると大きな麻袋を背負ったり、半裸の姿で重い大八車を引いたりする人たちがいる。
「じゃあ、あの働いている人たちも日本人なの?」
決まっているじゃないの、という母親の返事が不思議でならなかった。この体験は満洲育ちの子どもたちなら誰でも身に覚えがあるはずだ。
垢(あか)で汚れた服装で重い労働をするのは中国人で、彼らを使役し、彼らの引く人力車に、傲然(ごうぜん)と背をそらせて乗っているのが日本人、というのが当時のぼくたちの常識だった。
なんという惨めなことだろうか。中国人に対する理由のない民族的な差別、そして労働を卑しいとする誤った価値観。満州という植民地に暮らしていた日本の少年少女の多くは、この二重の差別意識を当然のように抱いていた。あるいはそのように教育されていたということなのだ。

<寒い北風 吹いたとて おぢけるやうな子どもぢゃないよ まんしゅうそだちの わたしたち・・・」
という歌を小、中学校の同窓会で合唱することがあるが、満州の思い出に満腔(まんこう)の懐かしさを込めながらもどこかに罪の感覚、差別意識に伴う出来事の数々(馬車で運賃の支払い時に不満を言われたのが気に入らなくて、日本人の乗客が素手で馭者を殴りつける、というような場面をぼくは見たことがあるし、それは別に珍しいことではなかった)を覚えているから、満洲育ちのわれわれは大声であの頃の懐かしさを語り合うことをしない。ぼくたち引き揚げ者の原在意識とでもいうものだろうか。
今、日本の観光地はどこの国か、と思うほど中国人でにぎわっている。その中の何人かでいい、あなた方の両親や祖父母が今から70年、80年前の少年少女時代に日本という国とどう関わったか、どんな印象を持っているかというようなことを、じっくりと話してみたいと切実にぼくは思う。
日本と中国の友好はそんなところから始まるのではないだろうか。
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