
長谷さんは、先の大戦が終わる5カ月前に召集されて旧満州(中国東北部)に出征し、戦後シベリアで4年間の抑留生活を送った。
45年3月は召集直後で、外地に送られるのを待っていた千葉県柏市の部隊で、東京上空に数百機のB29が飛来するのを目撃することになった。
(前略)11枚の絵は、来年3月10日の東京大空襲の日の前後に、三鷹市内などを巡回展示できるように準備しているという。我執にまとめて出版する計画も進んでいる(水谷孝司)
「本日をもって本校を閉校とする」と校長が宣言した。時は1945年8月10日。満州(現・中国東北部)・新京第一中学校の講堂でのこと。一年生だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っているさなかである。ソ連参戦で市内は大混乱。百キロ南の生家・公主嶺に向かう列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊が退却しているのだ。
当時、満鉄・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先させて転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態になったことは周知の事実だ。五兄(利則)は神風特攻でフィリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だった。彼が部下に託した遺書にはこうあった。「だれのためでもない。俺は行く、行くしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後をついでくれ」と。子どもから大人になって、「戦争はさせない」の思いいっぱいだ。だから戦争体験を、次の世代に語り,つづり、歌で伝えたい。
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