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zoom RSS 旧満州・安東からの脱出行 林 暢さんA

<<   作成日時 : 2019/01/22 06:11   >>

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 「私の戦争体験」ー開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー 
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    共産党治下の市民生活の記
 
 垢と煤煙にまいれ、身には数十匹のシラミとともに14日深夜、我が家に戻ると、母と妹は居らず、父が一人で私を向かえてくれた。”よく帰れたな、お前のことはあきらめていた。”と嬉しそうだった。妹が疫痢にかk、母が付添って入院したが峠は越したと聞き、安心して一夜を明かす。翌15日、雑音の多いラジオで日本の敗戦を知らされる。とうとう敗けたのか、この先一体どうなるんだ、いつ日本に帰れるのか、漠然とした不安を感じたことを今でも覚えている。
 学校は自然廃校となり、在学証明書を受領した。旧来の行政組織が解体し、約3万人の日本人市民は、有力者を中心にtくられた日本人会の指示を受け、日常生活を続けることになった。敗戦の日の前後から、新京、奉天などを逃げ出した日本人避難民が続々とやってきて、日本人の各家庭に割当て収容される。わが家にも4家族11人が入居し、合わせて15人の大家族に膨れあがった。リュックひとつと手に持てるだけの見廻りのものしかなく、ふとんや鍋・釜・茶碗などを自由に使ってもらった。


 八月の末頃だったと思うがソ連軍が入ってきた。一説によれば囚人部隊だといわれたくらい掠奪暴行眼に余るほどで、昼日中、陵辱される婦人もあり、日本人会の懇望により、町の芸者集、玄人衆が中心になり慰安施設を用意して、幾らかは沈静化したもののいつやられるか判らず、日本の女性は断髪し、男装して外出するのが常であった。各家庭のミシンとラジオは供出を命令され、また工場の目ぼしい機会は撤去され、貨車に積んで本国シベリア方面へ送られていった。
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 戦争中は犬猿の仲の国民党と共産軍は、相協力して抗日戦線を張っていたが、日本瓦解の後、再び抗争状態に入りやがて大規模な内戦に突入する。最初は装備にすぐれた国民党軍が優勢で、安東へは追われた形で共産軍が入ってくる。十月頃であったと記憶する。安東と奉天の中間の山岳地帯で睨み合いが続き、結果としてはこの後一年間、膠着状態となる。共産軍は軍規が厳正で、軍政を布き、通貨として軍票を発行し、行政組織を徐々に固めていったので、治安が回復し、民心をがっちりと掌握してしまった。
 しかし旧満州の行政や警察の要路にあった人、虐待されたと民衆から訴えられた人に対する報復は厳しく、捕らえられた日本人・満人は裸馬車に乗せられ、市中引き回しの後、公開銃殺されていった。また、市中を歩いてる日本人男性が無理矢里に徴用され、前線の塹壕堀や雑役に引張られることも屡々で、私のクラスメートの何人かもこの憂目にあっている。周辺を国民党軍に包囲されているとはい言え、安東は畑あり、田あり、川あり、海ありで農産物・水産物に恵まれたy土地で、食料品は潤沢で、毎日、露店に市が立ち、米、とうもろこし、食肉、魚、金さえあれば何でも手にすることができた。もともとの市民は売り喰いするだけの何かを持っているが、奥地から避難して来た人達は、有金が底をつき、銀行通帳は単なる紙きれにしかすぎず、食物や日用品をどこからか仕入れての行商や、露店での食べ物屋の店を出したり、満人の店の手伝い等で、やっとその日の糧を稼ぐことを余儀なくされた。我家では充分に余裕はあったが、人目もあることだし、面白半分も手伝って私もいくつかの商売を手掛けてみた。早朝の豆腐売り、市場の一隅を借りてお好み焼きを売ったこともある。仕入れたものが余れば夜家中の大家族に無償で平らげてもらう。儲かるか否かは二の次で、面白い経験であった。

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