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zoom RSS 旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん@

<<   作成日時 : 2019/01/05 06:08   >>

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 1992年、東京都立両国高校・OB(48回生=昭和7年生まれ)らが文集を発刊。題して「私たちの戦争体験」。私のクラスメート林 暢(はやしのぶ)さんも筆をとった。あの年、旧満州安東中学3年生が苦難の逃避行を振り返る。長文なので数回にわたって連載。
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 最近の8年間、仕事の関係でよく中国に行く。名刺を交換すると”中国人と同じ名前ですね”とよく言われる。”そうなんですよ、もしかしたら中国人になっていたかもしれません”と答えるのが常である。

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 昭和14年夏から21年の10月まで、私は旧満洲の安東市(現在は丹東)に住んでいた。小学3年の2学期から、敗戦時は中学3年、翌21年10月現地を脱出し、12月に帰国、22年4月に縁あって都立3中(写真)の3年に編入できたので、大半の学友より二歳の年長で、従って還暦はとうに過ぎてしまっている。
 ソ連が不法にも参戦した8月9日、私は北満の開拓団での二ヶ月間の勤労奉仕を終えて予定通り汽車に乗り、9日の朝はハルビン付近を南下中だった。ソ連参戦とともに、南へ大量の日本人避難民の流れが渦を巻き、どうやら奉天(現、瀋陽市)までは戻れたものの、安東への汽車に乗れず、漸く許可を得て貨物列車に乗り、我家に辿りついたのが8月14日の深夜であった。
 運命の歯車の噛み合いがほんの僅かずれて、開拓団出発が数日遅れていたならば、命を失うか、或いは満洲孤児になっている公算が大きく、中国人になっていたかもしれないというのは決してジョークではない。

 昭和17年、18年と戦火が激しくなり、日本の劣勢が徐々にはっきりしてはきても、満洲南部は平穏であった。中学に入ると軍事教練があったり、銃をかついで行軍があったり、先輩の何人かが予科練に行くなど、戦時色が身近に濃くなってはきたが、B29が来る訳もなく、英語の授業が一時も中断することもなく、食糧は豊富で、日本がいま世界中を相手に大戦争に突っ込んでいるとの認識は中途半端なものであったことは否めない。これが戦争の、受身の形ではあれ体験とは、オコガマシクて、言えた義理ではなかったが、20年6月に開拓団へ出発したのが、私の戦争体験のスタートだったと言えるだろう。
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     開拓団勤労奉仕の記 

 私たちのクラスが行ったのは、長野県から入植した華陽開拓団で、小興安嶺の山竝を北に望み、国境までは直線距離で約300キロメートル、数十戸の規模で、大豆やとうもろこしを主作物とし、僅かではあったが水稲もあった。
 先生が召集され休校になっていた小学校の教室で寝起をし、炊事班を除いた全員が毎日畑に出て、作物の株間の調整と草取りに従事した。農家の働き手の男たちは招集を受け、老人と婦女子が残っており、私たちの引率の先生も召集されて監督者不在となってしまったが腕白ざかりの集団としては、毎日よく働いたものと思う。

 水田があるため毎食米飯にありついたが、お菜は野草の藜(あかざ)の葉を入れた豆腐の味噌汁だけ、あまりの単調さに音をあげて、3〜3人ずつ交替で3里も離れた県城のある町へシナ料理を食べに行き、ついでに副食物や菓子、そして煙草を持ち帰るのも少い楽しみのひとつであった。これが煙草に馴染んだきっかけである。鮭の味もこの時覚えた。
 休みの日、農家から馬を借りて、裸馬にまたがり野道を駆けさせたり、近くの川で泳いだりした。新聞もなく、ラジオもなく、戦況や世の中がどうなっているやら、まったくの聾さじきの中での毎日であった。
 予定通り8月8日、開拓団に別れを告げ、夕方、汽車に乗った。その日の夜12時、ソ連が参戦し、怒涛の進撃を始めようとはつゆ知らず、ハルビンを過ぎて知らされ慄然とした。
 老人、婦女子のみの開拓団はその後どうなったか詳細は知らない。多分、多くの犠牲者を出したものと思わざるを得ない。

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