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zoom RSS 旧満州・安東からの脱出行 林 暢さんC

<<   作成日時 : 2019/02/12 07:01   >>

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 「私の戦争体験」−開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー
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 織物工場は、日本人居住区の中心部から約六キロメートルの町外れにあり、工場内に狭いながらも居室を準備するというので、社宅明け渡しの際あらかた処分済みの衣類、見廻り品の中から、さらに最小限に絞り込んで荷物をまとめ、十二月初めの或る日、郊外に引越した。日本人は父の他に三名。その中の一人はかつての父の部下で電気に明るく、私も工員の一員となって電気配線や伝導シャフト張り、機械へのベルト掛け等に忙しい毎日を送った。
 父の指導下、織機は次々と組み立てられ、見事な絹紬を織り出していった。軍政によって治安はよく保たれており、身の安全をおびやかす心配はないが、どうしてもインフレ傾向は避けられない。しかし給与面ではとくだん問題は生じなかった。というのは給料が主食穀物のとうもろこしの粉の量で決められ、一ヶ月の平均市場価格を乗じて金額が決定されるしくみがうまく機能していたからだ。500グラムを斤(きん)という単位で表わすが、満人の工場長が四五〇斤、父が四三〇斤、私は一六〇斤で給与の全部を日々の食料に充てるため、多分日本内地では当時考えられない位の、米、肉魚・野菜・砂糖等を買い、その面では恵まれていたと言える。

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 物質的な充足は得られても、帰国のめどが皆目立たないという心の不安は消しようもなく、休日ごとい町へ出て、状況を探っていた。21年の五月ごろからだったと思うが,北廻りのコースでぼつぼつ引揚が始まった。安東から汽車に乗り、数時間で国共内戦の戦線付近に達する。徒歩で何日か山道を歩き、国府軍管轄下に入り、また汽車で奉天を経由し、胡芦島(ころとう)の港から引揚船に乗るコースである。
 日本人会はとうの昔に解体され、共産党員が権力闘争を繰り返しながら民主連盟とか日僑連盟などと看板を書き換えつつ在日日本人の指導に当たっており引揚の許可権を握っていた。野坂参三氏も岡野進ちう偽名で安東に一時滞在していた。人民政府の工場要員である父に引揚認可が出る筈もなく、引揚は始まっても逆に可能性は遠のくばかり、うまいものを食べる意外になす術のない日々が続く。

 そんな或る日、近くにある王子製紙系の工場から、近隣地区にいる日本人に集合せよと指示があった。”俺は行かないよ、お前、行ってみろ”とっちに言われ、夜、指定時間に言ってみると、板の間に座っている30人位の日本人を前にして、初老の温和そうな日本人が座らされ、傍らに目をいからした青年が二人立っている。”お前は、戦争中満人の従業員をいじめたろう”とか”○年○月、会社の女性を口くどいたろう””無理な増産計画を立て、戦争に協力したろう2などと小突き廻し、肯定したら肯定したで、否定したら否定したで際限なく罵声を浴びせかける。その合間合間に”戦争犯罪人打倒!、日本帝国主義打倒1、天皇制を廃止せよ”と取り巻きの私達に所謂シュプレヒコールを、突き上げた拳を強要する。二人の青年は延安帰りと称する主義者で、初老の紳士は、かつての工場長であった。馬鹿馬鹿しい限りだが、権力の横暴に刃向うことのできない弱い羊にしか過ぎない私達は、彼らの命ずうまま、拳を上げ、叫ばなくてはならなかった。共産主義の暗黒の部分をこのような形で自体験し、戦後の日本がこれに巻き込まれなかったことの幸せを、帰国後つくづくと感謝したものである。

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