中村メイコさんの「特攻隊慰問」

 東京新聞の夕刊に「この道」というコラムがある。著名人の起伏に富んだ半生記をつづったもので興味を引かれ好読み物である。以下は2009年3月ごろ俳優の中村メイコさんが書いた39回目のもの。題して「特攻隊慰問」。一度このブログで取り上げ、アクセス数もベスト14位(現在1120回)にランクされている。再録する。
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 「奈良には文化財がいっぱいあるから爆撃はないだろう」と考え、疎開先を決めた父のもくろみは見事に当たりました。
 すぐそばの大阪にはぼんぼん空襲があるのですが私たちが暮らす富雄村はまだまだのどか。つらいといえばつらいけれど、それほど悲惨でもない日々を私は過ごしていました。
 「特攻隊の慰問に行ってもらえませんか」そんな依頼が軍からあ舞い込んだのは、敗色も濃厚となった昭和20年に入ってからのことでした。
 反戦主義の父は、幼い私を特攻隊の慰問に行かせるなんて大反対。対して、感激屋の母は、むしろ「お役に立つことなら」といったふうでした。いずれにしても、これは軍からの命令。他の仕事と違い、断ることは許されませんでした。
 私の他に、若い女優さんとして美佐子姉ちゃまも慰問団に加入。「軍属待遇」だった私たちは戦闘機に乗せられ、戦地へと向いました。

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 飛行機はどこから飛び立ち、どこに降り立ったのか、行き先はアッツ島か。はたまたトラック島か。軍事機密保持という理由で、私たちは移動中ずっと目隠しをされており、行動はすべて軍の監視下にありました。
 内地の鹿児島・知覧も含めて、少なくとも六回は慰問にでかけたでしょうか。そのうち、「若くて美しい清水美佐子さんはいい。メイコちゃんだけにしてください」という注文が入りました。
 特攻隊の青年と言えば、学徒出陣で召集されてきた、いわば昨日まで大学生だった人たち。ハイネやリルケの詩集を持っているような、インテリさんばかりです。
 明日死ぬ。そんなときに、きれいな女性を見ても虚(むな)しくなるだけで、慰めにもならない。ご馳走を見せられても食欲もない。自らのさだめを思い、無表情になっていく彼らを奮い立たせるには小さい子どもを送り込むのが一番効果的だったのです。
 <この子たちの未来のために、僕たちは今、死んで行くのだ>
 結果的に、とても悲しい戦争の道具にされた私。いいことをしたのか。悪いことをしたのか。大人になってすべて聞かされた時。私は珍しくシリアスになって考え込み、深く落ち込みました。

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