
全てが狂った 高松市の空襲
埼玉・北本市 三好あきお(90歳)
私の9条を守る原点は、戦災者ということである。世界の人々がうらやむ日本の平和憲法第二章は9条のみで戦争は「永久にこれを放棄する」という条文である。
敗戦の年(19455年)の7月4日、米軍機の高松市の空襲により、家屋・家財を全焼され、後は放浪。大叔母も恩師も死亡。学校も中途退学し何もかも来るってしまった。人生なんか頭にはなかった。
戦争なんか、とんでもないことである。地球上の人たちがお互い武器をとってたたかい合うなど・・・。
「本日をもって本校を閉校とする」と校長が宣言した。時は1945年8月10日。満州(現・中国東北部)・新京第一中学校の講堂でのこと。一年生だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っているさなかである。ソ連参戦で市内は大混乱。百キロ南の生家・公主嶺に向かう列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊が退却しているのだ。
当時、満鉄・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先させて転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態になったことは周知の事実だ。五兄(利則)は神風特攻でフィリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だった。彼が部下に託した遺書にはこうあった。「だれのためでもない。俺は行く、行くしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後をついでくれ」と。子どもから大人になって、「戦争はさせない」の思いいっぱいだ。だから戦争体験を、次の世代に語り,つづり、歌で伝えたい。
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