「東京大空襲は忘れない」『赤旗・「ひと」』

 昨今の新聞、テレビなどメディアは「コロナ禍」関連の企画・話題一色。加えて3月11日に迎える東日本大震災10年の特集記事で満載状態。ひところ、3月といえば10日の東京大空襲が大きく扱われていたが、今年はほとんど見当たらない。そんななか、しんぶん「赤旗」が26日、「ひと」欄で、「平和の集いを主宰する人」として江東区深川生まれの濱田嘉一さん(83)を紹介している。「東京大空襲の語り部」としての経歴と活動歴を載せ共感を覚え、私のブログに転載することにした。  いみじくも文中の三つの「固有名詞」が私の履歴にリンクするので叩くキーボードの軽やかなこと。それは、一つ「清澄庭園」(歩いて5分の白河一丁目に戦後48年間居住していた)。二つ「ノモンハン」(生まれ故郷の旧満州・公主嶺市は関東軍の一大基地。出撃した部隊が全滅)。三つ「両国高校」(旧都立三中の48回生。)だったからである。以下画面をご覧ください。

続きを読む

救済法の成立求めて 空襲連 サイレント街頭宣伝

 民間人の空襲被害者の救済法案の成立を求める「全国空襲連絡協議会」は25日、サイレント街頭宣伝を衆議院第ニ議員会館前で行いました。16日に続く行動です。  緊急事態宣言が出される中、約15人が参加。東京大空襲の写真パネルや、「空襲で墓に骨なく母眠る」と手書きで書かれたプラカードを手にしたり、防災頭巾をかぶるなど、参加者は思い思いのやり方で静かにアピールを行いました。  東京大空襲の約1周間後に祖父2人を亡くし、戦後に精神を病みアルコール中毒になった兄と過ごしたという浅見洋子さん(71)=大田区=は「事実を知ったとき、戦後生まれでもできることはある」との思いで活動を続けています。「戦争を起こした国として、立法は責任をはたす必要がある」と話し、今通常国会中の救済法案の成立を求めました。  先の大戦の継承運動を行う団体 history for peace 代表の福島宏希さん(38)は「東京大空襲では10万人の命が奪われた。うち8万人以上の名簿を東京都は持っているのに、個人情報を理由に公開していない」「後世の人間が考える材料を失われないためにも、公開すべきだ」と強調しました。  救済法案は、空襲や沖縄戦などで心身に障害や傷を負った人に一律50万円を特別給付する内容です。同団体は3月3日には院内集会を予定しています。(しんぶん「赤旗」2月26日付)

続きを読む

震度6強 よみがえった恐怖 東京新聞 片山夏子

 十三日夜の自身は最大震度6強。十年前の東日本震災を思い出して焦った。原発も作業は朝早いので、その夜も自宅ニ階で寝ていたところ、ドーンという衝撃で跳び起きた。すごい揺れでいろいろな物が落ちてきて、家具を抑えるので精いっぱい。すぐ原発が心配になったけど、今は核燃料が十分冷やされていると思い、自分を落ち着けた。同じ階に寝ていた家族もみんな部屋から飛び出してきた。十年前のことが瞬時によみがえり。やべーなと思ったが揺れが収まりほっとした。  東日本大震災の時は、ドドーンという強い縦揺れやグラグラという横揺れがあり、その後さらにユーラユーラと大きな横揺れがきた。揺れは何分も続き、とにかく長くて怖かった。  十三日の自身も衝撃はすごかったけど、十年前より揺れが続かず止まってよかった。子どもたちもおっかながって。直後はどうしていいのかわからないようだった。一度、震災を経験すると恐怖心がよみがえる。その後も余震が続き、家族全員が眠れない夜を過ごした。  翌日は日曜日だったけど、緊急招集がかかった。自分の家の点検もできないまま、現場に行った。機器が壊れていないかなど、各現場で点検をした。その後も、震度4の余震があった時などはびくっとした。  それにしても、地震の一週間後に1,3号機の格納容器内の水位が下がっていると発表があるなんて。圧力も下がっているし、どっか抜けてるんだろう。誰が考えても汚染水が漏れ出している。重要な数値は大丈夫だし、燃料も冷却できているようだけど3号機の壊れた地震計ニ基を何カ月も放置して…

続きを読む

子どもの声届いていますか 『赤旗 潮流』

私たちは、本当に子どもの声を聴けているのだろうか。同じおとなとして、ドキリとする問いかけでした▼日本スクールソーシャルワーク教会がオンラインで開催した冬季研修会。上からの一斉休校が子どもや家族と出会う場を奪い、貧困、虐待、孤立が深化したと語られました。学校再開で問題は一気に噴出。「最初に助けを求めていた時に、彼らと出会えていなかった」と悔やみます▼そんな中でも、それぞれの持場でSOSをキャッチしようと必死でした。それまでのつながりの糸が引き出した「しんどい」という悲鳴。さらに新たな糸を紡ぐため、コロナ禍の下で地域の「居場所」を開き続けた努力も。待ちの姿勢にならない取り組みが、子どもの命をなんとかつないできました▼大切なのは、子どもにとって一番身近な学校を「安心・安全」の場にすること。が、教職員にも余裕はないのが実情です。子どもがぽつりと言った一言が、実は本質ではないか。その思いを丁寧にすくい上げるゆとりが、今こそ必要です▼あるワーカーは言います。「私だけでなく教師、同世代の子ども、すてきなおとなたちと出会えるチャンスをつくるよう心がけてきた」と。大切なのは、子どもの声を聴くおとなが増えること。どこかだけに責任を押し付けることなく、声を受け取るおとながつながろうと呼びかけています▼そして聴き取られる経験の積み重ねが、意見表明へつながり、やがて支援を求める力になるのだとも。子どもの声、あなたにとどいていますか。(2021・2.25)

続きを読む

司馬遼太郎と半藤一利さん 『東京新聞・筆洗』

菜の花畠に入日薄れー。唱歌「朧月夜」を歌う声に司馬遼太郎さんは「それは何の歌だ」と尋ねたそうだ。菜の花が大好きな司馬さんのためにと歌ったのは作家半藤一利さんである。小学校に通う代わりに図書館に入り浸ったせいで有名な唱歌を知らなかったとは、長いつきあいの半藤さんの見立てだ▼人がコーヒーを一杯飲む間に司馬さんは三百ページほどの本を三冊読み終えていた。唱歌の話に片りんがみえる。「神がかった」読書の量と力、取材や知識への熱意の人であったそうだ。「資料を読んで読んで読み尽くして、そのあとに一滴、二滴出る透明な滴(しずく)を書くのです」という言葉とともに半藤さんが書き残している▼司馬さんが亡くなり二十五年たった。十二日は命日「菜の花忌」である。半藤くん、俺たちには相当責任がある。こんな国を残して子孫に顔向けできるか」。没する一年前に語ったという▼憂えていたのは、ひたすら金もうけに走り、金もうけに操られるような社会だった。「足るを知る」の心が大切になると、世に語りかけようとしていた▼憂いは過去のものになっていないだろう。災害、経済の混乱、疫病の流行・・・。司馬さんなら何を語るかと思うことも多い四半世紀である。憂いをともにし、後を継ぐように昭和を書いてきた半藤さんも他界した▼著作の中に、残された滴に、声をさがしたくなる菜の花忌である。(2021・2・13)

続きを読む

日本国・国歌は「故郷」(ふるさと)がいい

 いつのことだったか、大学の仲間が集った「同窓会」(昭和一桁生まれ)で話が日本国・国歌に及んだことがあった。「君が代」を忌避する声が圧倒的だったが、それならそれに代わるものは? と議論していると、「『故郷』はどうだ」との提案。自然に場は「♪兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川・・・」の大合唱になった。即座にみな「これだ、これだ」と。  きょうは天皇の生まれた日だそうだ。それかあらぬか昨日(22日)の東京新聞・「今週のことば」欄に「兎追いしかの山・・・」の歌詞が取り上げられている。NPO法人・くだかけ会代表の和田重良氏のコラムだ。(永井至正)

続きを読む

詩集 「ロ号33番」永井和子 -38-

  【しあわせ】 大きな黒い眼は二つ 丸い手足の指は五本 あたりまえのそのことが ときどきじんと胸にきます 生れるその瞬間には ただ健やかな五体だけを願った つつましい母の心が いつか 日日の暮しになれてしまわぬように・・・ 澄んだ瞳に映る世界は二つ 大空をとらえる指は五本 そのなにげないしあわせが ときどき熱くまぶたに溢れるのです

続きを読む

相手の気持ちに寄り添う大坂選手 『赤旗・潮流』

たたかいを終え、たたえあう選手たちに胸が熱くなることがあります。テニスの表彰式のスピーチも同じです。互いに思いやる気持ちが見え隠れする瞬間があります▼20日、大坂なおみ選手が制した全豪オープンにもありました。決勝で破れたジェニフアー・ブレイディ選手が「たぶん母は、テレビを見ながら泣いていると思います」と話しました▼それを受け、大坂選手は語りかけました。「お母さんのことを話していましたよね。きっと誇りに思っていますよ。家族、友人がみな誇りに思っているに違いありません」。相手の気持ちに寄り添う優しさがふんわりとにじみました▼今大会の大坂選手には芯の通った強さがありました。どんなに追い詰められてもあきらめず、力を出し切る。マッチポイントを握られてしのいだ試合もありました。3年前に初めて4大大会を制した後、重圧でしばしば自分を見失った姿がうそのようです▼「隔離期間に世界で起きていることを知り、いろいろな見方ができるようになった」。新型コロナで試合がない中、自身と社会を見つめた時間が自分を変えました。「私はアスリートである前に黒人女性」。昨秋の全米オープンで、黒人被害者7人の名入マスクを着け反差別を訴えたこともその一つです▼表彰式で主催者からたたえられたのもこのこと。「社会を少しでもよいものにしようとしているあなたの姿勢はすばらしい」。まっすぐな生き方、常に努力を惜しまない姿が多くの人を励まし続けています。(2021・2・22) 【追記】強いテニス・プレイヤーであるのみならず、社会性を持ち、あたたかく、と…

続きを読む

今年はオンライン「東京大空襲を語り継ぐつどい」

 東京大空襲・戦災資料センター(江東区)は毎年、東京大空襲があった3月10日に先立って開いてきた「東京大空襲を語り継ぐつどい」を、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、オンラインで行う。20日から申し込み受付を開始し、3月1日~14日に配信する、ネット環境がない人のために、どう内容の映像を収録したDVDも販売する予定。(東京新聞2月20日付) 【注】配信申込みの締め切りは同月12日。問い合わせは同センター ☎03-5857-5631 (下イラストは2019年のもの)。

続きを読む

小林多喜二をしのんで詩う 永井和子

「夜明けの前が一番暗いのだと 私は知っている 冬が厳しいほど 春ははじけるようにやってくるのだと 私たちは知っている 明日は、明るい日だと 知っている」(永井和子=『憲法を詩う」から) https://38300902.at.webry.info/201202/article_29.html

続きを読む

「ちょっと一言」 210219

 あと5カ月に迫った東京オリ・パラ。神出鬼没の疫病コロナ禍のなか、開催が危ぶまれている。それでも「祭典は平和の証し」などと猛進する輩をみると、あの戦争末期のガタヌカナルやインパール作戦を思い出す。一度進めたら、もう一歩も後に引かぬ玉砕作戦をこの国は引き継いで行こうとしている。(140字)

続きを読む

戦争被害者放置するな 全国空襲連

 民間人の戦争被害者を救済する法律の成立を求め、被害者や遺族などでつくる「全国空襲被害者遺族連絡協議会」は16日、衆議院第2議員会館前でサイレント街頭宣伝を行いました。ころな禍で2回目の緊急事態宣言が出される中、訳20人が参加。参加者は距離を取り「戦争の後始末は済んでいない!もう待てない、空襲被害者に救済を」と書かれた横断幕や東京大空襲の写真パネルなどを手に、無言で通行人にアピールしました。  河合節子さん(81)は5歳のとき茨城県に疎開。東京に残っていた家族4人のうち母と弟2人を東京大空襲で亡くしました。3人の遺体は今も見つかっていません。「本当は去年救済法が成立してほしかった。こんなことを76年間も放置してきたのが許せない」「もう一度同じこと(戦争)が起こったら、被害者はまた放置される」と話し、今通常国会中の救済法成立の実現と賠償を強く求めました。  昨年9月から大学を休学して全国空襲連を支える活動をしている桐山愛音(かのん)さん(21)=大学3年生=は「国が民間人の戦争被害者を放置しているのは重大な問題。国の人権意識や、あり方が問われている」と危機感をあらわにしました。  救済法は、空襲や沖縄戦などで心身に障害や傷を負った人に一律50万円を特別給付します。(しんぶん「赤旗」17日付)

続きを読む

再度の受賞 東京新聞 片山夏子記者

東京新聞の福島特別支局長・片山夏子さんの著作に、このほど「早稲田ジャーナリズム奨励賞」が授与されることになった。(同紙・2月17日付・下欄画面参照)、同氏は昨年、「むの・たけじ賞も受けており、再度の栄誉となった。「満州っ子」は2017年の終戦特集号で片山さんの懇切な取材をうけており、その包み込むような温かさと冷徹な記者魂に接して感嘆。即座にファンとなった。以後彼女の署名入りの記事は欠かさずブログで紹介してきたつもり。いずれ近い内に「片山さんに出会って」とでも題して、ブログに特集を試みたいと思っている。(永井至正)

続きを読む

こんな地震 また来るとは 東京新聞

 2月13日深夜福島県など東北地方を襲った大地震。16日の東京新聞一面トップに、そのときの模様が報道されている。「こんな地震 またくるなんて」「津波の記憶よぎり『足震えた』」の見出しがくっきり、臨場感たっぷりの記事だ。これは同紙福島報道部長の片山夏子記者のレポートである。  福島県の中通りと浜通り、宮城県南部で13日深夜、震度6強のじしんがあった。「こんな地震がまた来るなんて。もう。たくさんだ」。震度6強を観測した福島県新地町の自宅でネていた中塚芳子さん(68)は、足が震え、はうようにして外へ逃げた。頭によぎったのは十年前のあの日、自宅や町民百十人の命を奪った大津波の襲来だった。(片山夏子)  13日午後11時7分ごろ、どーん、どーんと下から突き上げる縦揺れが、布団にいた中塚さんを襲った、「10年前の地震より大きく感じて。えーっ、またって」。電子レンジや割れた皿の破片が散乱し、ひっくり返った電気ポットから漏れた湯で水浸しの中、手すりになるものを探し、ったいながら庭に出た。「何も持ち出せなかった」。中塚さんはうつむいた。夫の武さん(68)と共にけがもなく無事だった。室内は壁にひびが入り、ドアが閉まらない、幸い、電気はついたが「津波が来ない」と報道されても、不安だった。東日本大震災時、町内にあった自宅は海から50㍍、武さんは85歳の母と実家にいた。津波警報が鳴って二人で高台に上ると、黒い波が町をのみ込んだ。家は土台以外残らず、高台に立て直した。「地震で家が津波に持っていかれたあの時がよみがえっ…

続きを読む

「ちょっと一言」 210215

 かつての東京新聞・コラム「思ふがままに」での哲学者、梅原猛さんの言葉が迫る。「哺乳類で共喰い(戦争)するのは人類だけ」「人類は『絶滅危惧種』に指定されるかも」の二つ。彼特有の皮肉まじりの警句だが、コロナ禍(災害)のなか、政府や各国のていたらくな所業をみれば、次の世紀はもう来ないかも。 【140字での寸評】

続きを読む

片山夏子記者 プロフィール ー下ー

好評の内に終了した東京新聞所載の「詩が生まれるとき(15編)」。担当した片山夏子記者の小プロフィールをご紹介します。同紙8月1日付に掲載されたもの。  東京新聞福島特別支局の支局長に、特報部の片山夏子記者=写真=が1日付で就任。片山新支局長は「事故から十年、福島で生活できることはうれしいです。住んでみないと分からないことがたくさんあると感じています。初心に帰って取材したいです。【以下画面へ】  

続きを読む

片山夏子記者 プロフィール ー上ー

 好評の内に終了した東京新聞所載の「詩が生まれるとき(15編)」。担当した片山夏子記者の小プロフィールをご紹介します。同紙7月12日に掲載されたもの。  「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」の授与式が11日、東京都千代田区であり、連載「ふくしま作業員日誌」などの記事が対象に選ばれた東京新聞特別報道部の片山夏子記者に記念品が贈呈された。(以下画面へ)

続きを読む

詩が生まれるとき ふくしまの10年 -15-

 震災後、和合亮一さん(52)は、最後まで避難を呼び掛け津波で亡くなった宮城県南三陸町の職員、遠藤未希さん=当時(24)=の両親が、津波が押し寄せてきた時の映像を見ているニュースを見た。黒い波が押し寄せる中、防災無線で避難を促す声を聞き、お母さんが「まだ言っている、まだ言っている」とぽろぽろ泣いていた。多くの命を救った彼女の声を聞いた後、和合さんは南三陸を訪れた。  2011年12月6日は、オーケストラが演奏する大阪のホールと中継をつなぎ、多くの職員が津波で亡くなった南三陸の防災対策庁舎前で、和合さんは「詩の黙礼」を朗読する事になっていた。「南三陸。黒い波があらゆるものを奪っても、女性は必死になって、呼び掛けた。『高台へ、高台へ』・・・」  吹きすさぶ風の中で、和合さんは声を張り上げたが声をかき消すほどの強い風雨。天気は何かに怒っているかのように荒れていた。予行演習はうまく行かなかった。失敗を重ねるにつれ、無力感に襲われた。自分の祈りは許されないのではないか。何ももかも空虚に感じた。13回の失敗。だが読み通してやると臨んだ本番は、初めてオーケストラと最後まで共演できた。  朗読しながら感情が込み上げてくるのをこらえた。読みきった後、祈りを許された気がした。指揮者が泣いていた。原発も震災も問題は解決していない。自分たちが取り残されていると感じる。小さな力かもしれない。でも祈りをやめない。和合さんは決意した。=おわり(東京新聞・片山夏子)

続きを読む

詩が生まれるとき ふくしまの10年 -14-

「詩の礫」は、震災直後からさまざまな言語に訳され、ツイッターで海外に拡散された。2011年5月、和合亮一さん(52)はオランダでも東日本大震災追悼コンサートに招致された。和合さんは自分が招かれたことを心底驚いた。英語もままならない上、ヨーロッパも初めてだった。  オランダでも震災のニュースが流れていた。前日の夕食会で和合さんの話の後、日本の駐在大使が声を上げて泣いた。母国への心配や不安、彼の苦しみを感じた。みんなが自国に置き換えて考え、痛みを分かろうとしてくれていた。オランダの人が、福島の町名まで知っているのに驚き、事の重大性を思い知った。  詩の朗読は日本語ですると決めていた。抑揚、テンポ、リズム・・・。自分の声一本で勝負しようと、全てを言葉に込めた。終演後、会場にいた人々が「言葉は分からないが、恐怖、悲しみが声から伝わってきた」「生きるエネルギーを感じた」と話すのを聞き。思いが届いたのを実感した。  その後も各国に呼ばれ、地鳴りがするほどの反響があるなど、言葉の力を感じる一方で、衝撃的なこともあった。フランスでは「FUKUSHIMA]というお好み焼き屋を見た。震災後、福島は「フクシマ」になり、いろいろな意味で有名になってしまったと寂しくなった。福島に帰っても誰にも言えなかった。  フクシマを福島、地元で言う軟らかい響き「ふぐすま」に戻せるのか。どうしたら子どもたちに福島を残せるのか。切迫した気持ちが、和合さんの中をぐるぐる回った。(東京新聞 片山夏子)

続きを読む

詩が生まれるとき ふくしまの10年 -13-

亡くなった人への鎮魂「詩の黙札」を一カ月半ツイッターで書き続けた後、和合亮一さん(52)は2011年5月25日に「詩の礫(つぶて)」を再開した。この日は原発から20㌔圏内の福島県南相馬市と富岡町の住民が、初めて一時帰宅した日だった。家にいるのが許された2時間、泣いただけで戻ってきた人もいた。  震災後、頭に浮かぶ言葉を次々投稿した。「詩の礫」は、他の詩人や評論家から「これは詩ではない」「詩の被災だ」「詩のだだ漏れ」「人の不幸を題材にした稚拙な作品」などと酷評された。「震災を利用して有名になろうとしている」と言う人もいた。一方で文学者らは「もともと技術力のある詩人。そこへ向かう理由が、震災にも和合さんにもあった」と反発。新聞では賛否を並べた特集が組まれた。  和合さんは深く傷ついたが、これほどのことを経験して今、書かなかったらいつ書くんだと思った。以前は1,2カ月で書いた詩を即興で次々発信したり、目の前の震災に絶望や怒りをぶつけたり、作風は変わったかもしれない。でもどんなことを言われようと詩を書こうと思った。  そんな時、福島市の小学校五年生の男子児童の作文に出会う。原発事故の問題は、自分がお父さんやおじいちゃんになっても解決しない。だから先の世代の子に教えるため、今勉強したいとつづっていた。和合さんははっとした。。これだけの被害にあったことを、自分は福島の人間として伝えたいんだと気付く、技法や作風ではない、自分の総力を挙げ、この震災を書こうと思った。

続きを読む

詩が生まれるとき ふくしまの10年-12-

 福島・浜通りに通い、死者への思いをつづりながら、和合亮一さん(52)は教え子や親しかった人に会いに行った。話をするうちに、被災した人に今、話を聞いて記録しなくてはと感じた。震災をどう受け止めればいいのか、どう傷を受けたのか、気力をどう取り戻そうとしているのか・・・。再生に向け、生き残った人たちと向き合いたかった。インタビューは初心者。お互い泣きながら話を聞いた。聞きたい言葉を聞いた時、相手の言葉が輝いてみえた。それを帰ってすぐ詩にした。  福島県南相馬市のクリーニング業の高橋美加子さん=当時(63)=は、電気のついていない真っ暗な町に戻り「別の生きものが住んでいるようですごく恐ろしかった」という。でも旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の汚染地で暮らす高齢者たちの映画を思い出し「ここでいい、ここで生きていこうと思った」と語った。  富岡町から郡山市に避難していた理容業の遠藤千代子さん=当時(67)=は、避難所で人を励まそうと声を掛けたが、みな気がめいっていて応じてもらえず、自分の存在価値に悩み思い詰めた。でもボランティアの人が「全部聞くよ」と一日中話を聞いてくれてようやく眠れ、悩んでいる人の話を聞くようになったという。「言葉には橋『言の橋』がある。よい架け橋をつくれば人と人をつなぐんだよ」  言葉には明かりがある。人の気持ちをつなぐ力がある。震災や原発事故は福島だけの問題じゃない。自分の住む福島から言葉で橋をかけたい。和合さんはそう思った。(東京新聞 片山夏子)

続きを読む

詩が生まれるとき ふくしまの10年 -11-

震災後の一カ月で、和合亮一さん(52)が福島市の教職員住宅を開けたのは一度だけ、少し開けてすぐしメタ。「窓をあけてはいけない」「雪や雨に触れないように」と言われていた。窓を開けずに見上げる空。ふと草野心平さんの「何たる声をたてたい吸ひ込む空」という死の一片が浮かぶ。放射能への不安がなかった時代の詩人の美しい言葉を思い、ツイートする。「外で、くうきを『吸ひ込む』ことなぞ、できやしないのです」。放射能」  浜通りに通う和合さんの心には、依然として黒い津波が押し寄せていた。海沿いでなあされて跡形もない家。がれきを前にぼうぜんとする人たち。悲しい家族の話をたくさん聞いた。生きていてくださいと心の中で祈った。浜に流れ着いた遺体は高校の体育館に安置されていた。原発から十㌔圏内では、津波の行方不明社の捜索がはい待ったばかり、どう魂を鎮めたらいいのか、毎晩不眠に悩まされた。  二十㌔県飯館村域や、w剛さんの母親の故郷・川俣町の一部に避難指示がでた。飯館には多くの知人がいた。住民がどれだけ村を愛しているか。避難計画は「見を切れ」という命令だと思った。自分たちに何の罪があるのか。避難区域が近づいてくるのを感じた。  2011年4月22日、20㌔圏内が警戒区域に指定された。故郷に許可なく入れないとはどういうことなのか。住民の故郷が失われる時。和合さんは投稿した。午前零時よ、来るな、午前零時が。来た。(東京新聞 片山夏子)  

続きを読む

池上彰氏の誤報 猛省を促したい

テレビ朝日1月30日「池上彰そうだったのか」。中国共産党の話題で、「共産主義」の語意を問われて、池上氏は繰り返し「財産の私有を認めない主義主張」と解説した。博覧強記の池上氏が「財産ではなく主要な生産手段の社会的共有」という真意を知らないはずはなく、視聴者に日本 共産党を含めて不信感などをもたらす誹謗(ひぼう)中傷の発言となってしまった。話術にたけた池上氏だけに影響は大きい。マルクスの『資本論』が改めて世界的に再評価されている現代。池上氏の猛省を促したい。 【注】東京・杉並区の山崎元氏(91)が4日付「しんぶん「赤旗」の「みんなのアンテナ」欄に投稿したものから転載させていただいた。

続きを読む

詩が生まれるとき ふくしまの10年-10-

山形に避難していた妻と息子が福島に帰ってきた。和合亮一さん(52)は心配だったが息子の生もとを尊重したかった。震災から一カ月、その間に、福島を襲った余震は千回を越えた。小学校の卒業式はなかったが、中学の入学式は行われた。新入生の名前を呼んだ後、在校生が一斉に立ちベートーベンの「喜びの唄」を歌う。力強い歌声を聴き、未来は彼らがつくってくれると感じて涙があふれた。  震災後、初めて相馬に行ってから、和合さんは浜通りに何度も通った。見渡す限りのがれきの海。見えない津波を常に感じた。失われた命、たくさんの悲しみや、絶望。胸の奥に鎮魂の思いが灯る。それは震災後、怒りと絶望感から、次々浮かぶ言葉を投げ続けた「詩の礫」とは対照的な、、静かな気持ちだった。  浜通りの海辺を歩きながら、気付くと雲間や光を探している自分がいた。亡くなった人たちに言葉を捧げたい。それは祈りなのではないかと、和合さんは思った。  小学校三年生のとき、一緒に暮らしていた大好きな祖父が亡くなった。悲しくてどうしたりいのか分からなかった。僧侶の詠む般若心經を耳で覚え、意味も分からないのに毎日、寝る前に祖母と唱えた後、目の前が明るくなり、祖父への思いが昇華していく気がした。喪失の中で感じた光だった、死者への鎮魂と祈り。一カ月半、毎晩「死の黙礼」の詩を書き続けた。言葉には力がある。死者への思いを追うほど、和合さんは生者の命や生きるエネルギーを感じた、(東京新聞・片山夏子)

続きを読む

詩が生まれるとき ふくしまの10年-9-

震災から三週間が過ぎたようやくガソリンが手に入るようになり、和合亮一さん(52)はすぐに福島県相馬市の松川村に向かった。相馬はおさない時によく遊びに逝った場所だった。隣の南相馬市は教員としての初任地で、二十代の六年間を過ごした。津波被害のひどかった浜通りの海で、亡くなった教え子やその家族に手を合わせたかった。 【以下画面へ】東日本大震災 特集記事 東京新聞ー片山夏子記者

続きを読む

詩が生まれるとき ふくしまの10年-8-

福島に関するいろいろなうわさ話が流れていた、福島と書いたら、避難先で宿泊を断られた。「福島の人は『福島の人』って名札を貼ってもらえないか」と放射能を恐れた県外の人の会話を聞いた。「私たちは噂話の中を暮らす。域を殺して嵐の中を暮らす」。2011年4月9日、和合亮一さん(52)はツイッターにこう記した。震災後、福島という響きが完全に変わってしまったのを感じていた。 【以下画面へ】あれから10年「東日本大震災」特集版 片山夏子

続きを読む

詩が生まれるとき ふくしまの10年-7-

久々に食料を買って福島市の教職員住宅に戻ると、放射線量や放射線セイウムについての注意書きが、掲示板に貼られていた。すぐには症状が出ない値。後から何が起こったら、その時に考えるしかない、和合亮一さん(52)は覚悟する。 【以下画面へ】

続きを読む

詩が生まれるとき ふくしまの10年-6-

震災後、ガソリンはなかなか手に入らなかった。ラジオでは「外に出た服はは燃やした方がいいでしょう」「屋外に行ったら髪と手と顔を洗いなさい」と言っていたが、断水で体を洗う水などなかった。和合亮一さん(52)は外出時に着た服は、家に入る前に全部ビニールに入れた。

続きを読む

今日は『赤旗』創刊93周年『赤旗・潮流』

大手メデイアに載らない記事、知っておくべき情報がある。権力を監視する気概を感じる。コロナ禍のなかで自分たちの要求を一生懸命、政府にぶつけてくれる共産党の機関紙だからー▼最近「しんぶん赤旗」の購読を申し込んでくれた人たちの声です。安倍前首相の「桜」疑惑や、菅首相の学術会議問題をはじめとするスクープの連発。多くのメディアに取り上げられるなど、いま「赤旗」が注目されています▼「問題意識を持てなかった」。桜を見る会を取材した「毎日」の記者は自戒を込めていました。なぜ「赤旗」にできて、われわれにはできなかったのか。他のメディアや識者が示したのは視点と追及する意志の違いでした▼本紙日曜版の編集長は「政権を握っているから後援会員を呼んでも仕方ないとみるのか、これは政権による行政の私物化とみるのか。それによって、見える景色が百八十度違ってくる」。ジャーナリストの青木理さんは「重要なのはメディアの姿勢」だと▼あふれる情報のなかで埋もれてしまいがちな真実や大切なことを伝えたい、現実に苦しんでいる人や社会を変えたいと願う人びとに寄り添い、力になる記事を書きたい・・・。「赤旗」記者に応募してきた同志たちの思いは、果たすべき役割を映しています▼きょうは「赤旗」の創刊93周年。国民目線で不公正や不平等とたたかい、社会を前に進めるための報道をこれからも。こんな要求も読者から届いています。「暗い世のなか、この先を明るく照らしてほしい。(2021・2・1)

続きを読む

「ワクチンナショナリズム」に批判 『赤旗・潮流』

ワクチンとはラテン語の「雌牛」を意味します。18世紀末にイギリス医師のジェンナーが牛痘を人に接種することで天然痘が予防できると発見。それが由来と言われています▼その後、近代細菌学の祖とされるフランスのパスツールが体に免疫をつくらせる物質をワクチンと呼ぶようになりました。感染症の歴史は、人類がその拡大を科学の力によって防ごうとしたワクチン開発の歩みにも重なります▼新型コロナウイルスのワクチン接種が始まりました。世界の感染者が1億人をこえたいま、収束の切り札と期待されています。しかし供給をめぐり、早くも各国の争奪戦や格差がうきぼりに。途上国は置き去りにされ、有効率の高いワクチンを先進国が独占する流れになっています▼欧州連合(EU)は域内で製造されたワクチンの輸出について規制措置を講じると発表。自国優先の「ワクチンナショナリズム」と批判のの声が上がり、世界保健機関(WHO)も公平な配分を阻むことになると懸念を示しています▼日本は2月下旬から医療従事者に、つづいて65歳以上の高齢者に接種を開始する計画だと政府はいいます。ただし世論調査では、すぐに受けたい人は2割ほどにとどまり、様子見が7割にものぼっています▼通常5年から10年かかるといわれるワクチン開発。急ごしらえに不安を覚える人は多い。正確な情報の伝達とともに安全性の確保、公平さが求められます。「科学に国境はない」。先駆者パスツールの言葉を肝に銘じるときです。(2021・1・31)

続きを読む