
神戸の灯を見たのは3人だけ
1945(昭和20)年8月10日、前日のソ連参戦で満州も危険地域になったとして、私の住んでいたあの大陸では有数の陸軍飛行場から海軍の一式陸上攻撃機が3機飛び立った。
内山光雄中尉以下6人の第13期海軍飛行予備学生(兄も土浦で同期)が率いる23名、南満州・公主嶺市の私の家の上空を顔が見えるほどの超低空で豪音を響かせながら三度旋回(通常なら絶対に許されない)、機上では挙手の敬礼、下ではおふくろをはじめ在住の家族、多くの日本人は手をあげ、日の丸を振り死地に赴く彼らに「さよなら」を絶叫していた。期せずして空陸あげての「惜別の会」になっていた。
それより先、沖縄が陥ち、ひしひしと米軍が本土に迫ってくる7月、本土決戦に備え残こされていた海軍機は比較的安全と思われる満州に退避していた。明日おも知れない彼らの行動は尋常ではなかった。酒が唯一のよりどころ、外出禁止命令などは問題外。この街につくやいなや繰り出したのは日本人街にある「カフエー」だった。
せまい街、それも当地出身の顔見知りの神島利則中尉のこと、しかも特攻で戦死したということは知れ渡っていた。
女給の一人が「この町にも軍神がいるのよ、あなたたちも同じ海軍さんね」と聞いた内山中尉、「名前は?」、「神島のトン(彼の愛称)ちゃんよ」。後で聞いたことだが、ベロベロに酔った彼らは、「きっとアイツだ、行こう」と立ち上がったそうだ。
玄関に立った若者とおふくろの間で繰り広げられた光景は想像に難くない。感動のあまり6人一人ひとりと抱き合いおいおいと涙、涙だったそうだ。それからの一週間、かれらは毎晩、酒と、(満州と軍には有り余る)食べ物を携え来宅、遺影を前にして、飲めや歌えの宴会の連続だったそうだ。そして、酔うほどに出てきた歌は「同期の桜」と「沖の鴎と飛行機のりは」だった。

しかし8月15日、宝塚飛行場に着陸前に前方に見えたのは六甲山の向こうにきらめく明かり、ドギモを抜かれていた。終戦を知らなかったのだ。着陸したのは一機だけ。あの日、公主嶺飛行場を飛び立った三機のうち二機は北朝鮮上空で米軍機と遭遇、撃墜されていた。後で内山光雄中尉曰く「あいつら(15人)はあの神戸の平和の灯を見ることができなかったんだよ」。
くしくも内山光雄中尉(駒沢大学出身)は石川県金沢市の住職の長男。おふくろの郷里も金沢。再会を果たしたのは9月の半ばだった。手を取り合って無事を確かめ合って滂沱の涙を流した。
【注】①13期海軍飛行予備学生とは昭和18年8月に志願して土浦、三重の航空隊に入隊(5112人)した学生出身者。戦没者は1616人だった。なお、敗戦の年の八月の戦死者は44人を数える。②内山光雄氏は20年の暮れ、痛恨の思いを抱いて石川県西部の「白山」にこもった。翌年下山、金沢市の北陸鉄道の労組委員長に、あの内灘闘争の先頭にたったという。後年私鉄総連副会長に就任辣腕をふるった。
【追記】上記全文が英訳されていますので紹介します。(googleで検索)


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