「満洲っ子 平和をうたう」 6月

 ブログ「満洲っ子 平和をうたう」。6月30日現在のページ数、アクセス数、などを表示します。「淡谷のり子と特攻隊」の増加が目立ちます。 ◆期 間=6月30日現在 ◆ページ数=5042 ◆テーマ数=61 ◆アクセス数=468404 ◆PV数=2138079      <アクセス数 ベスト15>    ①2552 淡谷のり子と特攻隊 ②2268 狩野光男画 東京大空襲㊥ ③2251 なかにし礼の「赤い月」を見て ④1888 狩野光男画 東京大空襲㊦ ⑤1865       〃        ㊤ ⑥1725 俺の言葉に泣いた奴が一人 ⑦1686 モンテスキュー・法の精神 ⑧1420 ドラクロア フランス画家 ⑨1402 オンブズマンが行く 8月号 ⑩1165 「あの東京大空襲」と私 ⑪1126 「雲ながるる果てに」-序文ー ⑫1064      〃      ② ⑬1050 中村メイ子さんと特攻隊員 ⑭1042 日本のうたごえ祭典 ⑮1004 千田夏光さんと不破哲三氏

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星野弘さんを追悼 作家 早乙女勝元さん

 東京大空襲訴訟の原告団長として、国に大空襲被害の補償と謝罪を求めるたたかいの先頭に立ち、17日に87歳で死去した星野弘さん。裁判を支援し、交流が深かった作家の早乙女勝元さんに追悼の思いを聞きました。(しんぶん「赤旗」 6月25日付)      志をくみ、戦争伝え続ける    訃報がきっかけで映像作家の私の娘が2015年に撮影した星野さんの証言DVD「ヒロシがいた橋」を見ました。1945年3月10日未明、大空襲の炎と煙の中をかき分けるように逃げ、九死に一生を得た体験は私と同じですが、1学年上だった星野さんは翌11日から犠牲者の無数の遺体を処理する作業(注)に動員されたのです。  映像で星野さんは、その作業中に赤ん坊を背負った母親の遺体が運河の水面に浮かんできた時の記憶を鮮明に語っていました。必死で何かにすがろうと、お母さんの髪を握りしめたまま亡くなった女児の遺体などを「今でも夢にまで見る。これが私にとって戦後の原点だ」と。星野さんが、遺族のため犠牲者名簿を収集する運動に始まり、国を相手に大空襲の被害を告発する裁判に立ち上がったのは、生き残った者としての使命感があったからではないでしょうか。   また軍人軍属の遺族には手厚い恩給を渡してきたのに、家族を失って障害を負った民間被害者の救済を拒み、戦争被害は国民が等しく耐え忍ばなければならないとする国への強い怒りがあったのだと思います。  訴訟は最高裁で敗訴が確定したものの、その後、超党派の議員連盟に働きかけ、救済をめざす立法運動にに…

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東京大空襲訴訟 星野弘さんの「遺志を継ぐ」

 東京大空週訴訟原告団長を務め、17日に87歳で死去した全国空襲被害者連絡協議会名誉顧問の星野弘さんの葬儀が23日、葛飾区の斎場で営まれた。(東京新聞「都心版」23日付)  高齢で来られない被害者もいたが、元原告や近親者ら約140人が参列。元軍人のような補償がない空襲被害者の救済を求めた故人との別れを惜しんだ。  1945年3月10日の東京大空襲で母と二人の弟を亡くした河合節子さん(79)が弔辞を述べ、超党派の国会議員連盟と救済法制定を目指してきた経緯を説明。「もうしばらく天国で見守り、一緒に闘ってください。遺志を継ぎ、救済法ができるまで命の限り努力します」と誓った。  参列した中山武敏・元弁護団長(74)も「星野さんがいなければ、これだけの大きな運動にはならなかった」としのび、「頑張るしかない。 超党派なら何とかなる」と語った。(橋本誠)

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今も目に浮かぶ 星野弘さんの語る顔

 「翌日、歩くと、町中に若い女性の遺体が並んでいて、道路以外のところは、まだ火がくすぶっていて歩けなかった。-14歳の思い出を穏やかに語る顔が、今も目に浮かびます」(東京民報6月21日付ーコラム「一分」) ▼東京大空襲訴訟団の団長を務めた星野弘さんが、17日に亡くなりました。東京民報にも、訴訟の節目などに、自身の体験、被害補償を求める思いを語ってもらいました▼大空襲訴訟は、星野さんらが始めた、空襲被害者を調査し、犠牲者を記録する活動が原点です。10万人とも言われる犠牲者は、まともな調査もなく、被害の実相がわかっていませんでした▼軍人軍属は恩給などで援護されるのに、民間人は放置されたままの状況を変えようと、国の謝罪と補償を求めたのが大空襲訴訟です。戦争の被害は全国民が受忍すべきという「受忍論」により、最高裁で敗訴したものの、地裁判決は「被害者の実態調査や、死亡者の埋葬、顕彰等に配慮することは、国家の道義的責任」と書き込みました▼空襲被害者が高齢化する中、国会では、超党派で民間人の空襲被害への援護法案を制定する動きが出ています。「この国を、人間を大切にする国に」と訴えてきた空襲被害者にこたえる法制定は、待ったなしの課題す。

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星野弘さん逝く 東京大空襲訴訟原告団長

 東京大空襲訴訟原告団長で全国空襲被害者連絡協議会名誉顧問の星野弘(ほしのひろし)さんが17日、誤嚥性肺炎のため死去した。87歳。東京都出身。通夜は21日午後6時から、葬儀は22日午前11時から東京都葛飾区白鳥2-9-1、四つ木斎場で、喪主は妻雅子さん。(東京新聞6月19日付)  1945年3月10日、十万人が亡くなったとされる東京大空襲で自宅を焼かれ、養子縁組していた叔父夫婦を亡くした。97年、大半が不明だった死者の氏名の記録を始め、2001年に発足した東京空襲犠牲者遺族会で会長を務めた。  07年、元軍人のような補償がない民間の空襲被害者の救済を国に求め、原告131人による東京大空襲訴訟を起こしたが、最高裁で敗訴が確定。10年に全国空襲被害者連絡協議会を結成し、超党派の国会議員連盟とともに、障害を負った被害者への一時金や空襲の実態調査を柱とする立法運動を進めていた。   星野 弘さんが亡くなられたことを今朝の東京新聞で知って、思わず熱いものがこみみ上げてきた。小生、区議に落選。新赴任地が東京・押上駅の前にあった。憔悴している小生を温かく出迎えてくれたのが星野弘さん。それで二人して立ち上げたのが「東京六区選対本部」(不破哲三事務所)。以来40数年交流が続いた忘れられない大先輩だった・・・。

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東京大空襲訴訟2周年 大集会のチラシ

 2009年3月10日、「私たちの戦後は 終わっていに」とのスローガンで浅草公会堂で開かれた。東京大空襲訴訟2周年の1000人大集会。「歴史に残る公正な判決を!」と求めています。

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「焼夷弾の音 体が震えた」 城南空襲

 1945年5月24日の城南空襲は、米軍B29爆撃機520機が旧荏原区に襲来。町の約360人が亡くなったとされる。(東京新聞ー2018年5月28日付「都心版 原尚子)

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議会合意ないと対応困難 都の「平和祈念館」建設

 東京空襲の資料を展示して後世に伝える「都平和祈念館(仮称)」の建設を求め、都に公開質問状を提出していた市民団体は17日(4月)、都から「議会での一定の審議と合意がなされなければ対応は難しい」と回答があったと明らかにした。     質問状に東京都が回答   昨年9月に質問状を提出した「建設をすすめる会」によると、今年3月28日付で回答があった。大きな空襲があった3月10日に毎年実施している「都平和の日記念行事」の内容などを充実するよう求めた質問には「行事の企画内容は定着し、参加者からも賛意を得ている」と回答。世話人の柴田桂馬さん(88)=北区=は「回答は現状を踏襲する内容にとどまり残念だ」と話した。  祈念館の建設は、都が1990年代後半に検討したが、展示内容や歴史認識を巡って都議会での合意が得られず、けいかくは、計画は凍結されたままになっている。(東京新聞ー榊原智康)

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この空の下 空襲と母 わら半紙の記憶

 東京空襲といえば、3月10日の下町、5月24日、25日の「山手の大空襲」。だが、4月13日、B29による東京西北部の猛爆撃のことは今回初めて知った。それは「城北大空襲」。東京新聞はその時の一女性の忘れることのできない「悲しい記憶」を紹介している。 ■この空の下  わら半紙五枚の表と裏にびっしり並んだ鉛筆の文字。1945年4月13日の城北大空襲の記憶を、保坂時江さん(86)=埼玉県所沢市=は翌春、女学校の作文の授業で克明につづった。桜の散る頃、約2500人の命を奪った空襲で保坂さんも母を亡くした。悲しみを凝縮したわら半紙を戦後ずっと手元に置いていた。・・・・・・

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4月18日 本土初空襲

 米軍が日本の本土を初めて空襲したのは、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃による日米開戦から、わずか4カ月後のことであった。(東京新聞・2014年4月ー「A-TO-Z」)  1942(昭和17)年4月18日、米陸軍のド-リットル中佐率いるB25爆撃機16機が、千葉県・犬吠埼1150キロ地点の空母「ホーネット」から出撃した。攻撃目標は、東京、神奈川、名古屋、神戸の各地点にあった軍事施設や石油工場、発電所で、多くの民間人を含む120人が犠牲になった。  B25爆撃機は正午ごろ日本上空に侵入し、全国で計60発の爆弾と焼夷弾を投下、機銃掃射も行った。最も大きな被害を受けたのは東京で、初弾は、東京都荒川区東尾久の住宅街を直撃した。このことから、本土初空襲を「尾久初空襲」と呼ぶこともある。 【リンク】http://38300902.at.webry.info/201405/article_29.html

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城北大空襲から73年 証言第3集発刊

 約2500人が亡くなった1945年4月13日の城北大空襲の被災者の証言集第三集を、被害が大きかった豊島区などの住民有志「4・13根津山小さな追悼会実行委員会」が発刊した。13にち午後2時、同区の南池袋公園で開く追悼会で、証言集を希望者に配る。(東京新聞ー4月12日付=増井のぞみ)           被災者の聞き取りは継続      (中略)証言集の発刊は今回で区切りとするが、被災者の聞き取りは続け、簡易な冊子などでの伝承を検討する。実行委員会事務局長の吉田雅明さん(67)は「犠牲者を追悼しきれていないという思いが原動力」と話す。問い合わせは吉田さん=電090(1663)4538=へ。

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会報 「ふくわらい」 2018年3月号 ㊦

 会報・「ふくわらい」3月号の裏面。3月ともなれば江東区にとって欠かすことがでないテーマは東京大空襲。「無言館」の窪島誠一郎館長を招いての「東京大空襲を語り継ぐつどい」の模様をトップで伝えています。     軍国主義はいけない 悲惨な空襲体験     3月10日未明の米軍機による無差別爆撃で10万人以上が犠牲になった東京大空襲かあ間もなく73年を迎える3月4日「東京大空襲を語り継ぐ実行委員会」主催による集いが開かれ会場のティアラこうとうには300人を超える参加者が集まりました。  八木健一さんのハープ演奏による、東京大空襲への鎮魂歌「祈り・光へ」で始まりました。  体験者の小林暢夫さん(88)は、「軍国少年だったので大空襲のあった3月10日も真っ黒焦げの死体が転がった中を学徒動員の工場に向った。途中胸がドキドキしたが、恐ろしいことに次第に慣れてしまった。軍国主義はいけない。語り継ぐのは義務だと思う」と語りました。  旧城東区北砂で被災した竹内静代さんの証言映像作品の上映や都内の高校生からのビデオレターも上映されました。  作家で戦没画学生の遺作を集めた美術館「無言館」の館主、窪島誠一郎さんは、「東京大空襲と私」と題して講演。石巻に疎開していたが、終戦後世田谷区に戻ったら自宅周辺は焼け野原だった。食糧不足で、生卵一個を親子3人で食べたと当時を思い出しながら語りました。

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東京大空襲73年 上野で法要 苦しみ今も・・・

  10万人以上の命が一夜で奪われた東京大空襲から10日で73年、前日の9日、上野(台東区)の二会場で予定されていた、大空襲で家族6人を失ったエッセイスト海老名香葉子さん(84)=台東区=らによる追悼集会「時忘れじの集い」は悪天候で中止となった、それでも約三百人が急きょ法要のみ実施した。(東京新聞・3月10日「都心版)  海老名さんは、JR上野駅近くに自身が建立した慰霊碑「哀(かな)しみの東京大空襲」の前で焼香。息子で落語家の林家正蔵さん(55)、林家三平さん(47)y、集まった日智たちも順に焼香、手を合わせた。集会は中止のため、あいさつなどはなかった。  法要の後、海老名さんはコメント文を発表。「どんなに時が過ぎてもあの苦しみは消えるkとはありまえん。食べ物もなくひょろひょろの人たちが、炎の地獄のあと地で親を探す子たちに、もうあきらめなと言い聞かせました」と当時を振る帰り、「無残な戦争のいたましさをたえなくては」と訴えた。(谷岡聖史)

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今日東京大空襲73年 早乙女勝元さんが新著

 東京大空襲をライフワークとしてきた作家の早乙女勝元さん。これまで数多くの関連著書を出版していますが、このほど「赤ちゃんと母の火の夜」という子ども向けの新著を発表。今各方面から好評をえています。3月10日付「赤旗」がコラム「潮流」で紹介しています。 【潮流】警戒警報のサイレンがうなるなか、陣痛がはじまりました。敵機が先か、お産が先か、息詰まるとき。やがて大きな産声とともに、元気な赤ちゃんがこの世に誕生しました▼1945年3月9日夜から10日未明のこと。当時の本所区(現墨田区)竪川に住んでいた武者みよさんは病院で女児を出産。安心もつかの間、強風にあおられた無数の火柱が渦を巻きながら押し寄せてきます▼赤く染まった夜空には米爆撃機B29の群れ。生まれたばかりの赤ちゃんをかかえた武者さんは、担架に乗せられて火の海のなかに。避難先を探し回った病院職員の尽力で2人は生きのびましたが、自宅にいた両親と夫、そして12人の子ども全員を亡くしました▼「子どもたちの名前を一人ずつ呼びながら、どんなに泣いたかわかりません。もう涙は出尽くしてしまいました」。みよさんから体験を聞いた作家の早乙女勝元さんは最近、『赤ちゃんと母の火の夜』と題する児童書にその話をまとめました▼一夜にして10万人もの命を奪った東京大空襲。山のような黒焦げの死体は戦争にひた走った軍国主義の犠牲になった庶民の痛ましい姿でした。生き残った体験者はあの悲惨をくり返すまいと、今も高齢をおしてかたり続けています▼活動の拠点となってきた戦災資料センター…

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東京大空襲あす73年 空襲連「民間救済法を」

 東京大空襲から73年となる10日を前に、全国空襲被害者連絡協議会(空襲連)が8日、衆議院第一議員会館で集会を開いた。国は軍人・軍属には約60兆円を保証してきたが、民間の空襲被害者にはしておらず、参加者は「今国会で救済法際率を」と訴えた。(東京新聞3月9日付)  超党派の国会議員連盟は昨年4月、一人50万円の一時金や被害調査を柱とする骨子案をまとめたが、国会の混乱や支給範囲を巡る議論が続き、提出されていない。鹿児島県の空襲で左脚を失った安野輝子・空襲連運営委員長(78)は、死亡した高齢の被害者に触れ「もう待てない。孫や次の世代のために救済法を」と呼び掛けた。  東京大空襲で母親と二人の弟を亡くした河合節子さん(78)は「一番の被害者は亡くなった方たち」として実態調査などを要望。大阪空襲で右脚を負傷した小林英子さん(84)は「脚が痛くて仕方ない。一日も早く法律を」と求めた。  空襲議連の北村誠吾衆院議員(自民)は「シベリア抑留などで戦後処理は一区切り付いたとの認識が多いが、国民の生活ぶりや社会。経済情勢も変わっている」として党内や政府に理解を広げる考えを示した。 ■「もう待てぬ」空襲連が国会内集会(しんぶん「赤旗」3月9日付)

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東京大空襲「心に今も」 都内で語り継ぐつどい

 約十万人が亡くなったとされる1945年3月10日の東京大空襲を「語り継ぐつどい」が4日、東京都内(江東区ティアラこうとう)で開かれた。(東京新聞 3月5日付) 戦没画学生の遺作を集めた美術館「無言館」(長野県上田市)館主の窪島誠一郎さん(76)=同市=は「実際に空襲は体験していなくても、心の空襲は今もある」と語った。  窪島さんによると、当時は4歳で、両親と三人で宮城県石巻市に疎開。戦後、、暮らしていた東京へ戻ると一面は焼け野原で、家も財産も失った。  食卓では生卵一個や焼きのり一枚を家庭で大切に分け合う日々。「地をはうように懸命に生きた両親の苦しみがからだに染みついて、低温やけどのようによみがえる」と静かに話した。  戦没した画学生の作品約六百点を展示する美術館を設立して今年で21年目。「芸術は平和のために無力かもしれないが、平和でなければ芸術派生まれない。作品を守ることで平和の尊さを伝えたい」と強調した。  集会には約330人が参加。被災した女性の証言映像が流されたほか、ハープ奏者による犠牲者の鎮魂歌も演奏された。

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なぜ庶民が犠牲に 東京大空襲語り継ぐつどい

 米軍爆撃機による無差別攻撃により10万人以上の市民が犠牲になった東京大空襲から73年となる10日を前に、江東区で4日、「東京大空襲を語り継ぐつどい」が開かれ330人が参加しました。(「赤旗」3月5日付「社会面」)  作家で無言館館主の窪島誠一郎さんが、「『東京大空襲』と私」と題して講演。窪島さんは、戦争の記憶が、今ごろになってよみがえってくると語り、当時の体験が「私の心に記憶のしみとなって残っているからだろう」と述べ、自らの生い立ちや、戦中、戦後の体験を語りました。  大空襲当時、中学2年生だった小林暢夫さん(88)は、「なぜ悲惨な空襲を一般庶民が受けたのか。それは当時の日本の軍国主義の結果」と話し、庶民の暮らしのなかにどう軍国化が浸透していったか紹介しました。東京大空襲の翌日の話しでは、子どもを守るようにして亡くなった親子の遺体を見るなどした悲惨な体験を語りました。  小林さんは、「軍国主義になってはいけない。これだけははっきり言える」と述べ自らの体験をこれからも語り継ぐ強い決意を語りました。  主催者で東京大空襲・戦災資料センター館長の早乙女勝元さんは、憲法9条改訂の発議が狙われているとし、「憲法9条を守り抜くことができるのか。守らなければ死んでも死にきれない皆さんとご一緒に頑張っていく」とあいさつしました。  集いでは、ハープ奏者の八木健一さんが大空襲への鎮魂歌「祈り・光へ」などを演奏。空襲体験者の証言映像を上映しました。

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もう待てない ただちに空襲被害者救済を!

 全国空襲被害者連絡協議会は来る3月8日(木)、午後3時から衆議院第一議員会館で「全国空襲連「3・8議員と被害者のつどい」を開きます。お知らせです。  空襲議連会長の河村建夫さん(衆議院議員)があいさつ。沢田 猛さん(事務局長)の会務報告。黒岩哲彦さん(全国空襲連運営委員長・弁護士)の国会活動報告の後、参加した国会議員のみなさんと「公開討論」が行われる予定です。

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「生きているうちに成立を!」 空襲被害者

 空襲被害者が初めて国会に救済立法を求めてから半世紀近くが立ちました。平均年齢は80歳を超え、被害者が相次いで亡くなっています。生きているうちに成立をー。被害者たちは強く訴えます。(「赤旗」日曜版ー2・11付・本吉真希記者)      超党派で法案骨子    超党派による国会の空襲議員連盟は昨年4月、アジア・太平洋戦争中に空襲や艦砲射撃などで身体障害を負った生存者に、一時金50万円を支給する骨子素案をまとめました。与野党で詰めの議論を継続しています。同議連会長の河村建夫衆院議員(自民党)も「戦後処理の積み残しには国が対応すべきだ」と発言しています。  1月28日には全国空襲被害者連絡協議会が国会内で記者会見。運営委員長の安野輝子ん(78)=大阪府=は「生存している命にも限りがある」とのべ、今国会での法案成立を求めました。(中略)      過去14回も提出   空襲被害者らを救済する援護法案は、国会に野党共同で過去14回(73~88年)提出されましたが、すべて廃案になりました。  日本弁護士連合会は中本和洋会長名で、骨子素案に基づく法案の早期成立を求める談話を発表しました(1月22日)。そのなかで、国が始めた戦争の被害に対し「国が何らかの補償措置を行う責務がある」と指摘。元軍人・軍属らには援護法がある一方、一般戦災者への措置がないのは(憲法14条の)法の下の平等にも反する」とのべています。  前出の安野さんは「私が一番望んでいるのは再び戦争を起こさせないための謝罪と…

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開館16周年 東京大空襲を語り継ぐつどい

 毎年恒例の「東京大空襲を語り継ぐつどい」。今年は3月4日(日)の13時半から、江東区のエィアラこうとうで開催します!窪島誠一郎さんのご講演、空襲体験者のお話をはじめ、多彩な内容です。ご参加お待ちしております。(戦災資料センターHPより) ◆日 時:2018年3月4日(日)       開場13時 開会13時30分 ◆会 場:テイアラこうとう 大会議室 ◆定 員:300名(当日先着順) ◆参加費:500円(高校生以下無料) ◆講 演:「『東京大空襲』と私」      窪島誠一郎さん(無言館館主) ■あいさつ:早乙女勝元さん(センター館長)  ・ハープ演奏(八木健一さん)・体験を語る小林暢夫さん 他 <連絡先>  東京大空襲。戦災資料センター  03-5857-5631   http]//www/tokyo-sennsai.net

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民間被害者救済急げ 全国空襲連

 太平洋戦争中に空襲被害に遭った民間人を救済する「空襲被害者救済法」(仮称)を今国会で成立させようと「全国空襲被害者連絡協議会」は23日、国会内で「元号が変わる前に『戦後』にけじめを!」とした緊急記者会見をひらきました。  岩崎建弥副委員長を司会に、共同代表の早乙女勝元氏(85)=作家=と前田哲男氏(79)=軍事ジャーナリスト、元大阪空襲訴訟原告団長の阿安野輝子市(78)、黒岩哲彦弁護士が発言しました。  岩崎氏が改憲を行う意義について、戦後72年を経た今も民間人被害者に一切の補償がなく、当事者が少なくなってきていると指摘。「この問題が、元号を三つまたがって持ち越されることは言語道断だ」と強調しました。  早乙女氏は、軍人・軍属への救済措置しかないことに「国民主権の憲法下にあるまじき不条理だ」と憤ります。「昭和16年12月8日の朝、起きたら戦争だった。政府から戦争を始めていいか聞かれた国民は誰もいない」と話し、「政府が補償というけじめをつけるのは当然のことだ」と同法制定を求めました。  鹿児島県の空襲で左足を失った安野氏は、「母に『どうして戦争に反対して呉れなかったん』ときつく当たったこともあった」と自身の過去を語りました。安倍政権が狙う9条改憲について「反対です。9条を守ってきたからこそ72年間戦争なく英和に生きてこられた」と力をこめました。  同協議会は、緊急声明を発表。声明は「民間被害者も旧軍人・軍属と差別せずに救済を」と立法化運動に取り組んできたが、日の目を見ずに新しい元…

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空襲被害者に一時金 法案提出めざす

 太平洋戦争中、空襲被害者に遭った民間人救済のため、超党派議員連盟(会長・河村建夫元官房長官)は、身体障害となった人などに一時金を支給する法案骨子をまとめ、1月召集される通常国会への議員提出を目指します。(しんぶん「赤旗」1月4日付)  政府は、戦争中の軍人軍属の公務上の負傷や疾病、死亡には補償してきましたが、民間人の空襲被害については▽国との雇用関係になかった▽戦争による被害は等しく受忍し、我慢しなければならないーとの理由で救済を拒んできました。  同議運の骨子案によると、給付対象は、太平洋戦争開戦の1941年12月8日から沖縄戦終結の45年9月7日までの間に、現在の日本領土内で空襲や船舶からの砲撃により負傷した身体障害者ら。戦傷病者戦没者遺族等援護法などによる給付を受けている人は除きます。  議運は、対象者を5000人~1万人と推計。最大50億円程度の予算が必要となります。各都道府県が申請を受け付け、審査で認定されれば一時金を支給するとしています。  議運では今後、一時金の額など検討を続けるとしていますが、議連幹部は「空襲で被災された方は高齢になっており、立法措置を急がなければならない」と話しています。

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「この道」 早乙女勝元さん スタート

 先にご案内の東京新聞夕刊の一面下欄に掲載される「この道」。いよいよ作家で、東京大空襲に関わって70年の早乙女勝元さんが登場です。これから何回続けられるか承知していないが、本ブログでは随時その要旨を伝えていく予定です。 ■平和のバトン   この夏のことから始めるとしよう。  8月12日から4日間、私どもの「夏休み特別が行われた。  私どもというのは、東京大空襲・戦災資料センター(江東区北砂)のことで、東京都が「平和記念館」建設計画を凍結したことにより、やむにやまれず、民立民営でスタートしたのだ。  東京の戦災を総合的に継承する唯一の施設として、15年間にわたり、「知っているなら伝えよう、しらないなら学ぼう」で、これまで焼く18万人の来館者に、空襲の実態と平和といのちの大切さを伝えてきた。特別企画は、体験者の語りに朗読、映像に紙芝居、若い世代の発表など盛りだくさんだが、主催者は朝から天候まで気になってしまう。ことしも大勢来てくれるかどうか。館長は身も細る思いである。 (中略)  私は一日目の冒頭で、短い挨拶をした。  「いつの間にか85歳。さっき、お若いですねなんて声がありましたが、若くないからいわれるんですね」(笑い)  「来館された方のなかには、ちょめいな日野原重明先生がおります。先ごろ、百五歳で亡くなられたのは残念ですが、先生を思えば、私はまだ20年あります。(笑)。次世代に平和のバトンを手渡すべく、もうひとふんばりと考えております」  予想外の拍手に、もうひと…

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「この道」早乙女勝元さん 19日スタート

 東京新聞夕刊の下欄にシリーズで掲載されている「この道」。著名人がこれまでたどってきた、いわば「半世記」。本ブログではこれまで中村メイコさん、倍賞千恵子さんらを取り上げ好評を博してきましたが、次回は作家の早乙女勝元さん(85)が登場します。期待しています。  阿刀田高さんの「この道」は29日で終わり、次回は作家の早乙女勝元(さおとめ・かつもと)さん=写真=が9月19日から登場します。  早乙女さんは1932年、東京生まれ、12さいで東京大空襲を経験し、戦後は夜間高校に通いながら文学を学び、18歳で書いた「下町の故郷」が直木賞候補となりました。70年には「東京空襲を記録する会」を結成。ルポルタージュ「東京大空襲・戦災誌」で菊池寛を受賞しました。2002年、東京都江東区に「東京大空襲・戦災資料センター」がオープンし、館長に就任。主な作品に「戦争と青春」「戦争を語りつぐ」なおがあります。庶民の生活を通し、平和の尊さを訴え続ける早乙女勝元さんの「この道」に、ご期待ください。(東京新聞8月25日付夕刊) 【ことば】早乙女勝元   私は、・・・・・・名もなき庶民のの生き証人を通じて、”皆殺し”無差別絨毯爆撃の夜に迫る。話すほうも、きくほうもつらかった。だが、そのつらさに耐えてくれた人のために、そしてまた、ものいわぬ八万人の死者のために、私は昭和20年3月10日を、ここに忠実に再録してみたい。私の人間としての執念のすべてをこめて。(平和のための名言集) 【リンク】「中村メイ子さんと特攻隊員…

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山の手空襲から72年 犠牲者の追悼法要

 太平洋戦争末期、米軍の空襲によって新宿や渋谷などが焼き尽くされた「山の手空襲」から72年を迎えた25日、表参道交差点に近い善光寺(港区北青山)で犠牲者を追悼する法要が営まれ、被災者ら約40人が参列した。(東京新聞ー5・26付)       命のありがたさかみしめ  山の手空襲は1945年5月25日夜に起きた。米軍機約500機が爆撃し、約3700人が死亡。同年3圧10日の東京大空襲に続いて都心が焦土と化し、壊滅的な被害を受けた。  参列した安田和子さん(86)=渋谷区=は当時、渋谷の近衛歩兵第4連隊の隊舎近くで父親、弟と暮らしていた。自宅周辺が炎に包まれる中、父親が通行許可書を持っていたため連隊の敷地を通れ、比較的被害が少なかった道をたどぅて九死に一生を得た。多くの友人らが空襲で犠牲になり、安田さんは「命があるだけでもありがたい」と平和な時代をかみしめた。  法要後、俳優の矢田稔さん(86)が、山の手空襲の被災者を紹介した本紙記事を朗読した。憲法9条への思いを込めt詩なども披露し、「生きている限り、善光寺での朗読を続けていきたい」と語った。(神野光伸)

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「空襲給付金法」制定を 有樂町で訴え

 全国空襲被害者連絡協議会(空襲連)は15日、元軍人のような援護がない空襲被害者への補償を求める活動を、千代田区の有樂町マリオン周辺で初めて実施した。(東京新聞4・15付都心版)  超党派国会議員連盟が今国会に提出を目指している法案名が「空襲被害者等給付金支給法案」になる見通しを明らかにし、通行人らに協力を呼びかけた。  周辺では1945年1月27日の有樂町・銀座空襲で多数の死傷者が出た。空襲連運営委員の榎本喜久治さん(83)は「銀座は戦場でした。空襲で手足や家族を失った人たちに国は援護していない」と主張。同年3月10日の東京大空襲で両親と妹を亡くしt吉田由美子さん(75)は「3歳で個人なったが、何の援助もなかった。」と訴えた。  空襲連は法案の柱を、障害者への一時金支給と孤児などの実態調査とするよう求め、議連で実務者会合がtづいている。

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戦後72年 東京大空襲を語り継ぐつどい

 東京大空襲から72年を迎えた3月5日、江戸東京博物館ホールで「つどい」が開かれ、白神優利子弁護士が「若い世代が東京大空襲を語り継ぐということ」をテーマに講演しました。(「こうとう民法」3月号)    東京大空襲・戦災資料センター会館15周年    白神さんは、高校生の頃に北砂1丁目の「戦災資料センター」を訪れ、戦争体験を聞き、憲法と出会い、弁護士になろうとした自分の気持ちの変化を紹介しました。  「戦争は、人間を壊し命を奪う人生を根底から壊してしまう。目前で人間が焼かれ、飢えに苦しむ残酷で悲惨なもの、それが戦争。体験したみなさんが思い出したくないことを話し、平和な社会を創るのは、あなたたちだと呼びかけてくれた」「憲法こそが平和な足元を照らす光だと話す体験者のみなさんのおかげで、私は憲法の本当の価値を知り、自分の言い方が変わった」  そして白神さんは、社会のおかしいことに対して、考え行動する「歴史のリレーランナーになろう」と呼びかけました。  また、つどいでは藤間宏夫さんが自らの戦争体験を「今だから伝えたいこと」をスライドで紹介。大島2中の生徒は、資料センターで学んだ東京大空襲をテーマに、文化祭で劇を発表したことを報告した。  館長の早乙女勝元さんは閉会挨拶で、「センターの運営を通して芽が出始めてきたことを実感している」と強調しました。

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戦後72年 「平和の俳句」 ー11- 

 3月の第3週シリーズ「平和の俳句」。3月10日の紙面で「東京大空襲 読み継ぐ」と題して特集が組まれています。。2人の体験者から寄せられた忘れることのできないあの大空襲。今回は東京・足立区の宮本勝子さん(76)の一句を紹介します。        ◆今もって低い爆音B29!!             宮本勝子さん(76)   ゴォーという音が空から聞こえると、ほんの一瞬、体が硬くなる。東京都足立区の宮本勝子さん(76)は今でも、飛行機やヘリコプターの音に反応してしまう。4歳で空襲を体験した。鶏肉店を営む両親と二人の姉、兄との6人家族で、深川(現江東区)で暮らしていた。             飛行機の音 消えぬ恐怖   あの夜は店の土間にいた。焼夷弾が屋根を突き破って落ちてきた。不発弾で命拾いしたが、3軒隣に落ちた焼夷弾から火が燃え広がった。自宅も、近くの銭湯もそば屋もみんな燃えてしまった。  1歳上の兄の手を引く母に背負われて逃げたことを、かすかに記憶している。川にしたいがたくさん浮いていた情景が思い浮かぶが、これは自分が見たのか、後に誰かから聞いた話なのか・・・。はっきりしない。火が収まった後、家の近くで水道の蛇口から流れていた水を、欠けた茶碗ですくって飲んだことだけは確かだ。  頭の中の記憶はおぼろげなのに、飛行機の音で体が戦争を思い出す。「これだけ年を取っても恐怖は消えない。そんな思いは誰にもしてほしくない」(石原真樹) ◆松の傷残りしままに寒の入り 隅谷…

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