石碑と早乙女勝元さん

1976(昭和51)年8月15日に発行された、写真集「石碑の誓い」の序文を作家の早乙女勝元さんが書かれた。「江東の空襲慰霊碑をつくる会」(代表・橋本代志子)が運動の一環として出されたものだが、終始サポートされてきた早乙女氏の一文は30年余を経た今もなお光彩を放っている。        忘れてならぬことに                                            早乙女 勝元    つらかったこと、苦しかったことは、忘れたい。人間の心情であろう。  忘れようと意識的に努力せずとも、それらの記憶は歳月とともに薄まっていく。かわりに、楽しかったことや美しい思い出は、より楽しく美化されて、心の中に永く生きつづけるのかもしれない。過去の記憶をよりわけて、それらの大半を「忘却」の中に葬ることができるからこそ、人間はフランクに生きていられるにちがいないのだ。  しかし、日本人は(などという他人事めいたいい方は好きでないが)一般的にいって、忘れてならぬことまで「忘却」の中に葬る才能に長じているような気がしてならないのだが、これは、私だけの思いすごしだろうか。  戦争体験もまた、その例に漏れない。  四年ほど前、私は仕事があって、東ヨーロッパを訪れる機会があったが、この旅で、かれらと日本人との戦争感を、歴然と見せつけられたような気がした。  たとえばハンガリーだが、首都ブタベストは、あの第二次大戦によってその75%を破壊されている。もちろん空からの爆…

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構成詩「石碑の誓い」より

太平洋戦争での東京大空襲で最も悲惨をきわめたのは、昭和20年3月9日から10日にかけての江東地区の空襲だった。僅か二時間余りの爆撃により、“銃後”と思われていた東京を一瞬にして血みどろの“戦場”にしてしまった。あれから29年、江東に空襲慰霊碑をという運動のなかで作られた「石碑の誓い」。永井和子が書いた。   29年目の3月10日の町で 雨風に朽ちていく 季節ごとに風化していく 家と家のすきまに 路地の日蔭に ひっそりと ちいさな墓標 よほど気をくばってあるく人ででもなければ 目にとまることもなく 目についてもかくべつ不審がられることもなく 忘れたがっている 忘れさせたがっている 人間の記憶のなかで 日毎 ぼかされていく ちいさな墓標 それはもう二十九年前 この町の橋という橋 川という川 火になって 真っ黒なたつまき走りぬき 呼吸する空気も火 呼びあう声も火 手も髪も涙も 火になって  あれはもう二十九年前 くりかえし過ぎる季節に 刻まれた文字はうすれ 雨風に欠け落ちて崩れていく ちいさな墓標 そのかげに 二十九年の戦後をけんめいに生きた おんなたちの戦後をけんめいに生きた おんなたちの怒りが やけどの右手を左手でかばう癖が しみついてしまった娘のかなしさが 日毎 鋭く刻まれていく この町 【注】05年3月5日、「満州っ子」のフアイルより転載

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『石碑の誓い』訪ねて 完

シリーズ「『石碑の誓い』訪ねて」(1975年8月15日・江東の空襲慰霊碑をつくる会発行)は今回で最終回となります。「作る会」に集った江東区・深川の婦人たちがあの凄惨な出来事を偲んで、それぞれの人が紙面に痛恨の想いを短歌で歌曲で俳句でつづりました。  宮下絹子     傷跡はいまなお残る生なまと 二十九年の歴史の上に  あらためて被爆者の声今朝はきく 夏雲流るる果て思いつつ  夾竹桃この下町に咲きさかる 八月の陽よくまなく照れよ  空襲のあとの明時見しという 人形の肌せし死びと積みつまれしひと  救われぬままに過ぎ来し日の長く 今日慰霊碑の請願を出す  戦災にゆきたる人の堂の前 鳩と居て我れ怒りしずめぬ  橋本 代志子    心深く刻まれてあれば燃え死にし 母まざまざと夢に顕ちくる  夢の中母みつめむと思ひしに おぼろになりて三十年経し   寺台 光三郎  炎天の瓦礫(がれき)の山に放心す  すでに亡き吾子の墓標や蛇苺(へびいちご)  戦災の子に黙祷の枇杷(びわ)二つ 碑文 昭和20年3月10日の空襲に殉難せる町会内諸霊の為ここに碑を立てとこしえにその英魂を弔ふ    昭和21年3月10日     東京都深川区洲崎辨天町会          代 森川健次郎             徳蔵虎吉 碑ははじめ東陽一丁目にあったが、昭和四十三年深川浄心寺に移された。昭和十八年当時、洲崎花町は石川島造船所の宿舎と…

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『石碑の誓い』 訪ねて⑥

「私たちは今までに区内にある二十三の碑や地蔵尊、角塔婆を捜しあてました。そのほとんどが個人や町内の人々の善意で建てられ、守られているのです。何の公の供養も保護もなく風化の一途をたどっている現状をみると、空襲体験の記録とともにこれらの碑や地蔵尊の姿も今のうちに伝承しなくてはと心が焦ります」(「写真集・石碑の誓い」あとがき)ーシリーズ6回目となります。   白いばらの花の刺は    永井和子 海辺橋をわたって 富岡橋をわたって 通いなれた道をあなたを訪ねていく 白いばらの花の刺は わたしの痛み 病院のベッドの上で苦しんでいるあなたに なんにもしてあげられなかった つらさの痛み あなたがあんなに欲しがっていた 平和で豊かな世のなかに あなたを生かせてあげられなかった せつなさの痛み 空襲の恐怖をくぐりぬけ 戦後の苦しみをくぐりぬけ 治らない病気を耐えて 生きぬいてきたあなたが 夢みつづけた「新しい社会」が すぐそこまできているのに それを見られずに死んだあなたの くやしさが そのまま わたしの心につきささる痛み はぎしりしたいくやしさの痛み 短い命を精一杯生きた あなたの誇りが わたしの命を熱くささえて 今日もわたしは海辺橋をわたる 白いばらの花の刺を抱いて あなたを訪ねていく もう会えないあなたを 白いばらの花の刺は わたしの痛み

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『石碑の誓い』 訪ねて⑤

1975(昭和46)年、江東区の女性たちが「江東の空襲慰霊碑を作る会」を立ち上げ、運動を展開することあしかけ四年、区議会で全会一致の採択を見ながら実を結ばないことに業を煮やした女性たち。魂のこもった慰霊碑を作ることがどれほど切実な意味を持つかと発刊したのが「写真集・石碑の誓い」だった。     橋をわたると白いさざんかの花が    永井和子  冬の季節に扇橋をわたるとつめたい川風にのってかすかな花の香りがほほにあたる。灰色の下町の風景のなかでそこだけはっと目のさめるような白いさざんかの花である。  橋をわたって数歩いった家の壁を切りとってはめこんだように、二体の戦災地蔵尊はまつられていた。古びて欠け落ちたところもあるけれど供えられている花はいつも新しく線香の香も絶えない。この地蔵尊をまもってこられた町の方々の心やりがしのばれる。  むかし風呂屋だったこの家は三月十日の空襲で一家全滅だった。近所の横塚さんがそのことを悼んで一体の地蔵尊を建立され、今はすぐ近くでペンキ屋を営んでいられる須藤さんはじめ町内の方々がまもっていられる。横塚さんからは今も忌ごとに花が届けられときいた。もい一体は関東震災のとき扇橋の川でたくさんの人が亡くなったのを慰霊するために建てられ、戦災後一緒にまつられるようになったものだ。  下町の人の心のあたたかさは白いさざんかの花よりもすがすがしく、それだけになお、空襲のすさまじさ、地蔵をまつらずにいられなかった人々の思いが切なく胸にしみる…

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『石碑の誓い』 訪ねて④

 そのオルゴールの音は、夕方家業のパッキング加工の仕事が終わって手を洗っている頃、ある時はお勝手で野菜をきざんでいる頃、また遊び呆けている子どもたちを呼んでいる頃、静かに聞こえてくるのでした。夕方の街を水色に浸していくような音色は、雨の日にはうるんで、お天気の日は軽やかに、また南風の吹く日は思いがけない近さで聞こえてくるのでした。    李さんのオルゴール    橋本代志子    私はそのオルゴールが白河小学校(江東区、後廃校)から流れてくることと、それを送ったのは李さんという八十歳に近い朝鮮の方だと知ったのはだいぶたってのことでした。  その人李仁株さんは、東深川橋の近くでお米屋さんを開業していて、清潔に刈り上げた白髪と、黒い太縁の眼鏡に特徴のある、肩幅の広いガッチリとした逞しい方でした。  その李さんが故郷の北朝鮮から来日したのは昭和七年、貧しくて、着のみ着のままのみすぼらしい姿だと聞きました。  来日した李さんは、石川島造船所の臨時工となり、罐焚きの作業につきましたが、異民族だというだけでとんがる差別の目といやがらせの毎日を耐えなければならず、李さんにとって日本の国は決して住みよい所ではありませんでした。でも李さんは必死で苦しい生活にしがみついていったのでした。  そして大正12年9月、関東大震災のあった日、危うく虐殺をまぬがれた李さんの目に数多くの同胞が理不尽にも引かれていく姿がありました。胸はにえたぎり、日本を恨みぬいたといいます。しかし李さんはそれにも…

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『石碑の誓い』 訪ねて③

1976(昭和51)年8月15日、橋本代志子さんら江東区の婦人たちが発行した写真集「石碑の誓い」。その15頁にこの写真が掲載されている。江東区・森下二丁目の森下産院。あの3月10日・東京大空襲の業火で焼け落ち外郭だけを残している。     江東区・森下  森下産院    昭和20年の記録では、産婦もえい児も全滅だったと伝えている。ベッドの上に焼け死んだ赤ん坊の死体がいっぱいだったこと、裏のマンホールへ逃げこんであやうく助かった下駄屋さんの話など、悲惨だった情景が目に浮かぶようだ。  建物は火のものすごさをありありと示して赤茶け、ところどころ黒ずんで変色しているのは、そこで、焼け死んだ人の脂がにじんだ跡だろうか。  都営住宅に建てかえられとかで、昭和51年に取りこわされ、今は跡片もなくなってしまった。がせめてせめて平和な生活がその上で営まれるよう願っている。  

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『石碑の誓い』 訪ねて②

戦争体験のある私たちは「戦争」という過ちの上にさらに、「忘却」という過ちをくりかえさないためにも、最大の被害を受けた江東区の区民として、理不尽な死に追いやられた人々の心を深く受けとめ、若い次の世代に平和と生命の大切さを伝えて行かなければならないと思ったのです。(『写真集・石碑の誓い』あとがきから)          炭になって   永井和子 にんげんが にんげんのかたちのまま もえると かたちのまま炭になる 炭になったにんげんは もはや にんげんではないから てかぎでかきあつめられ あらなわでくくられ トラックでほうりあげられる 炭になったにんげんは もはや おとこもおんなもくべつのしようもないから ひとまとめにして あなのなかにほうりこまれ もういちど焼かれる  ▼『母子像』  河野 進作    〔江東の空襲慰霊碑をつくる会〕 ・1971年3月 発会 ・同年同月 江東の空襲慰霊碑建設に関する請願を江東区議会に提出(紹介議員・永井至正) ・1972年3月 戦争体験文集『燃える川』発行 ・1973年5月慰霊碑建設の請願、江東区議会において全会一致で採択 ・1975年10月 母子像建設促進」の請願を江東区議会に提出、継続審議中 ・1976年8月15日 『石碑の誓い』を発行 写真撮影。金吉 進

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『石碑の誓い』 訪ねて①

1976(昭和51)年、「江東の空襲慰霊碑をつくる会」が発行した「写真集・石碑の誓い」に、運動と編集の中心になった女性たちの短歌、詩、想いがつづられている。それぞれが、今ひもといても胸に迫る。今回から写真をそえてシリーズでその一つひとつを転載していこう。今年の秋から冬にかけて東京大空襲訴訟の判決が下されるだけに多くの人にあのときの想いを反芻してもらえれば。   二十九年年目の三月十日の町で     永井和子 雨風に朽ちていく 季節ごとに風化していく 家と家のすきまに 路地の日陰に ひっそりと ちいさな墓標 よほど気をくばってあるく人ででもなければ 目にとまることもなく 目についてもかくべつ不審がられることもなく 忘れたがっている 忘れさせたがっている 人間の記憶のなかで 日ごとぼやかされていく ちいさな墓標 それはもう二十九年前 この町の橋という橋 川という川 火になって 真っ黒なたつまき走りぬけ 呼吸する空気も火 呼びあう声も火 手も髪も涙も火にした炎  あれはもう二十九年前  くりかえし過ぎる季節に  刻まれた文字はうすれ  雨風に欠け落ちて崩れていくちいさな墓標  そのかげに  二十九年前の戦後をけんめいに生きてきた  おんなたちの怒りが  やけどの右手を左手でかばうくせが  しみついてしまった娘のかなしさが   日ごと鋭く刻まれていくこの町・・・・・・ {東陽公園 角塔婆} かってこの地で大勢の人びとが帰…

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