敷島の大和心を人問わば

「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜かな」といえば知る人ぞ知る一首。太平洋戦争の末期1944年10月神風特別攻撃隊の先陣を切った5隊のネーミングに使われた本居宣長の短歌である。今日5月7日(1789年)は宣長が松坂に生まれた日。敷島、大和、朝日、山桜という美名に当時の若者はあおられうように死地に旅立った。 ▼特攻第一陣といわれた敷島隊だが  通説では神風特攻の第一陣は1945(昭和19)年10月25日の関行雄大尉が率いる敷島隊といわれているが、実情はフィリピンのマバラカット基地を飛び立ったのは21日。同隊は3度出撃するも索敵不能で引き返して来た。写真は何時の日のものか判明しないが、4度目の離陸直前、基地司令官は関大尉に「もう帰ってくるな!」といったという。  消息通によると24日には大和隊の予備学生・久能中尉が既に突っ込んでいた。軍司令部は軍神の第一号は海軍兵学校出でなければ面目が立たないということで、発表を遅らせ、前出の「帰ってくるな」という指示になったのだという。

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俺の言葉に泣いた奴が一人

「俺の言葉に泣いた奴が一人/俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人・・・」と胸に抱いて雲流るる果てに逝った慶應義塾大学出身の学徒飛行兵。宅島徳光が訓練の合い間に書いた手記・「くちなしの花」がある。この手記に感動した作曲家の遠藤実が曲をつけ、渡哲也が唄い大ヒットした『くちなしの花』を紹介しよう。  ▼慶応大学・三田、「丘の上」に立つ学徒出陣像  私の故郷、博多の奈良屋小学校の同級生で親友でもあった宅島徳光君のことについてどうしても戦争を知らない若い人たちに言い遺したいことがある。  彼の家は私の生家の近所で、地方の素封家と呼ばれる「旧式な厳格な家風」をもった裕福な家であった。なぜか私と気があって何回も彼の家に出入りした仲であったし、彼の家族の方々からも可愛がられた。  彼は福岡中学校から慶応義塾大学法学部に進み、昭和18年9月、第13期海軍飛行科予備学生として三重海軍航空隊に入隊、20年4月9日、松島基地を一式陸上攻撃機(一式陸攻)の機長として、同乗者7名とともに発進し、宮城県牡鹿郡金崋山沖に出動したまま行方を絶った。おそらく遭難死(殉職)したのだろう。  彼はすごくハンサムであった。頭も良かったし、とくに文章がうまかった。彼には八重子という恋人がいて、その若い彼女から、昭和19年6月、結婚の申し込みを受けたが、いつ果てるか明日の身もわからぬ、さだかならぬさだめを思い、自分のほうから断ったという。  また、達筆家で綿密に訓練中の日誌を遺している。題して『く…

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映画 「雲流るる果てに」㊦

日本の文化人・三大「山田」(山田洋次、山田太一、山田和夫)と云われ尊敬の念を持って多くの人に受け入れられている一人山田和夫さん(映画評論家)が江東区の高齢者集会に来られ、映画・「今日本映画がいい」と題して講演されたことがありました。その時、この「雲流れる果てに」について触れられました。   「雲流るる果てに」    戦後日本映画は今日まで反戦平和をたゆむことなく訴え続けてきた。そのなかでとくに記憶したいのは、特攻の悲劇と向い合った作品群である。  学徒出陣で戦場にかり出された学徒たちの手記を集めた『雲流るる果てに』が家城巳代治監督によって映画化(1953年)され、学徒出陣によって海軍予備学生になり、特攻隊員と死んだ若者たちの遺書がドラマに再現された。特攻を描いた最初の劇映画作品である。  「きけわだつみの声」もそうだが、「雲流るる果てに」でも、1943年10月の徴兵猶予打ち切りで学園から出征した学徒兵たちは陸軍士官学校や海軍兵学校を出たエリート職業軍人から、露骨な差別と屈辱を受けた。「雲流るる果てに」の学徒出身兵たちもそのなかで、優先的に特攻隊に送り込まれた。彼らは複雑な矛盾をはらみつつ、死への出発日を待った。出撃予定日が悪天候で日一日と延びる。「特攻待機」と呼ばれるこの耐えがたい日日の隊員の日常が映画の大部分を占める。「何のために死ぬのか?」、もう知識人の訓練を受けていた彼らには、思い悩むことは絶えない。家族への思い、妻や恋人への愛情、故郷の山河への郷愁。家城監督は自分…

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映画 「雲流るる果てに」㊤

戦後数々の特攻を描いた映画のなかでも秀作の一つ。「雲流るる果てに」は1953年、レッドパージで東宝を追われた家城巳代治が手がけた。制作段階では、脚本はもとより構成にまで紙一重で生還した同期生(第13期飛行予備学生)、遺族の体験や意見を取り入れ独立プロ・重宗プロが制作、大映により配給され感動を呼んだ。    南国の空の涯に散った特攻隊員、  彼らの胸に去来するものは・・・     一度出撃したら生きては帰れない特攻兵。若くして南国の空のはてに散っていった学徒航空兵の遺族によってまとめられた手記「雲流るる果てに」のタイトルをかりて作られた反戦映画の名作。今日限りの命を懸命に生きる彼らの青春群像があざやかに描き出され、と同時に残酷な戦争への激しい憤りを感じずにはいられない。  昭和20年春。日本軍の勝利を信じて疑わぬ典型的な軍人、大滝中尉(鶴田浩二)と命を大切にする深見中尉(木村功)は友人であった。愛する人と別れて出撃して死ぬ者、飛行中の事故で死ぬ者、若い命が次々と失われていく。そして全員が敵の艦隊に突入する最後の朝がやってきた。飛びたつた彼らは2度ともどらないのだった。  “主観的には純粋でありながら、客観的には無駄であった特攻隊の死。その矛盾をはっきりとらえられたとき、はじめてかなしさが無駄でなくなる”という家城監督の言葉に導かれ、鶴田浩二、木村功らが追いつめられた人間の心理を名演。脚本は直居欣哉が自らの体験をもとに八木保太郎、家城監督と共同執筆した。ほかに「異母兄弟」「裸…

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「雲流るる果てに」-57-

神林睦夫 [かんばやし・むつお] 東京第三師範ー東京都出身、昭和20年3月18日南九州上空で迎撃戦のなか戦死。搭乗機・零戦 22歳。(「雲流るる果てに」208~212頁)     死生の問の願ひ  父上のお風邪は如何ですか。重曹もなかなか手に入らず、栄養食とて思ふに任せぬ状勢故、充分御注意下さる様お願ひ致します。例年にない大雪であったとか、今日此頃は如何ですか。海域一年の冬が懐かしく偲ばれます。進出の二日前、真理ちゃんから父上のお心を伺ひ、現在としては只日毎の軍務に精励致して居ります。それにつきまして、今日は、私の現在の心境を語らせて下さい。  進出前に一回でよいから家へ帰れたらと思ひましたが、それも適はず遂にお暇乞ひもせずに参ってしまひました。今これから申上げること、何卒誤解のないやうくれぐれもお願ひいたします。如何なる時に、如何なる場所に、如何なる境涯に在っても、父上が育てられた睦夫は他の睦夫ではありません。この点は確かと信じて頂きたうございます。或は父上に叱られるかも知れません。しかし現在の心境としては、このまま胸に秘めただけでは居られないのであります。  前にも申したやうに、お会ひ出来れば何事もありませんが、現下の状勢に在っては、再び懐しい我家の門を潜ることも難く、我が身はただ祖国にのみ捧げるのではないかと思われます故、父上のお気持ちをお聞きしたのに更に申上げるは誠に心苦しいのでありますが、この辺りは御寛容くださるやうお願ひいたします。  (つづく)

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「雲流るる果てに」-56-

三宅精策 [みやけ・せいさく] 神戸高等工業学校ー東京都出身ー昭和20年1月6日、神風特別攻撃隊旭日隊、フィリピン、リンガエンへ向け北上中の空母を攻撃中戦死。搭乗機彗星。22歳。     母   上へ    17・10・26(手紙)  お母様お風邪をお召しになったさうですが、もう宜しゅうございますか。お忙しい時に僕が行くのでお気をお使ひになったからですね。不断は手紙を出さなかったり、時々憂鬱になるだけで好い子の積りなんですが、お母様の御側へ行くと駄々っ子になってしまふのです。これから段々に寒くなる一方ですから御無理をなさらぬやう随分御注意下さい。  今夜から秋宗さんへ行く時だけ衿を着ることにしました。部屋の内はそれでも未だ暖かなので、衿は比較的長い間着きますから、家では当分「セル」を着てゐます。護の方は円満に解決が附きました。  高工生活は充分意義があると思ひます。  「あの我儘が何を云ふか解りはしない」とおっしゃるかも知れませんが、お母様のお側にゐると全く駄目なのです。  では今日は、これで。充分御身体お大切に。  母上様               精策  二伸  風邪ももうすっかり癒りました。   18・9・27 (葉書)  御気嫌如何、私は至って元気。適性検査合格愈々海鷲の卵と決定。引きつゞき当隊に在隊。当分面会謝絶。小包は一切送って下さいますな。時節柄御身お大切に。    19・5・20 (葉書)    前略 …

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「雲流るる果てに」-55-

土屋 浩 [つちや・ひろし] 拓殖大学ー岡山県出身ー神風特別攻撃隊第26金剛隊、昭和20年1月9日、フィリピンのリンガエン湾にて戦死、22歳。搭乗機・零戦。(「雲流るる果てに」262~264頁)    櫻花を贈られて    前略 母上よりのお手紙実に嬉しく拝見致しました。めったに筆を持たれぬお母さんよりの便りだけに、それを読む時の喜び、到底筆舌に尽し得ません。  父上も相変らずの御多忙で殆んど家に居らるゝ事なき由、益々母上の務め頻繁となり、さぞお疲れの事でせう。  文二兄さんの入隊による母上のお喜び、さぞ大変なものだったことと思ひます。兄弟四人、皇国に生を享けし感激に応へ奉るべく、大いに奮闘致す日もさほど遠くないことなれば、私はこの日を唯々楽しみに致して居ります。  同封の櫻花、母上の真心こもるものだけに心より嬉しく思ひました。  私もこの櫻花の如くありがたいとは、学生時代より常日頃思ってゐただけに、今、家の庭の櫻花も手にし、感慨一入なるものがあります。     佐久良東雄先生の歌にも    ことしあらばわが大君のおほみため    人もかくこそ散るべかりけれ といふのがありますが、何といっても良いのは櫻花です。  この贈物は、今後、私の良き師良き友となることでありませう。  城山の櫻も、今年は不順のため少し遅れたらしいですが、こちらは、寒いといっても九州だけに十日程前が満開でありました。今頃あちこちの櫻が潔く散りつゝあります・・・・・・  …

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「雲流るる果てに」-54-

矢野 昇 [やの・のぼる] 中央大学ー長崎県出身ー昭和20年4月23日、沖縄方面にて戦死。25歳。搭乗機・零戦。(「雲流るる果てに」259~261頁)     お母様の眼    お母様、先日御出で下さいましたのに何等お話も出来ませず失礼いたしました。淋しいお心持のまゝお帰りだった事だらうと想像いたし、なぜもっとやさしく応対しなかったか、今更後悔して居ります。  平素御便りに申しました通り、国内も雲行が悪くなって参り、日と共に我々同志の者も次々に飛び立ってゐます。同期の者を見送るとき、いつになったら自分もあの感激が味はえるのかと、先立つ友を恨む気になるのです。しかし待つ甲斐あって、私にもいよいよ飛躍する秋が刻一刻と近づいてまゐりました。日曜日にお出下さる約束でしたが、それもはや不必要と存じます。すでに飛んだ後かと思ひますので、この便りを認める次第です。  お母様だけなりと飛び立つ我々の勇姿を一目みていたゞきたかった。それも今となってはかなひますまい。むしろ見送って下さらぬ方がいゝかとも思ひます。  お母様、考へてみますに、今日まで何一つ御恩返しのまねごとすら出来ず、不幸ばかりの数々・・・・・・お許し下さい。苦労して大学を卒へようとする私の信念に母さんは敗けて、私の学資の事については一切関係しないと固く云はれた母さんでしたけれど、上京してみると不安をいだいてゐた私に細々としたお心づくし、在学中に病気を知らせれば早速上京、夜を徹しての看護に、あゝ、母さんなればこそと、嬉し…

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「雲流るる果てに」-53-

清水正義 [しみず・まさよし] 慶応義塾大学ー東京都出身神風特別攻撃隊第三御楯隊員として菊水一号作戦に参加、昭和20年4月6日、直援機・零戦に乗って出撃、南西諸島にて戦死。24歳(「雲流るる果てに」256~259頁)    海軍志願のこと  七月三十一日発五十九信拝見しました。五十八信に同封の写真ではとても健康さうで、大部若返ったやうですね。福知山へ行く前と同じやうだとお母さんも云って喜んでをります。当方一同相変わらず元気ですが、兄さんが廣島に転任になってから丁度一月、大部慣れて来ましたが、毎日淋しいです。  昨日お父さんの手紙と一緒に来た便りに依ると、愈々待望の窓口へ出られるやうになったとか、本格的な銀行員になった訳ですね。張り切って刻苦勉励してゐることと思ひます。  前便でお知らせしました海軍予備学生志望の件ですがこれは主計志望でなく(勿論経理の予備学生もありますが・・・・・・)、兵科を志望したものです。  先月(七月)二十六日、越中島の高等商船学校で身体検査並びに口頭試問を受けましたが、  第一志望 航   空 B合格  第二志望 一般兵科 B合格 となりました。  飛行適といふことになってをりますから、多分採用されるだらうと思ってゐますが、飛行適の者は九月中旬にもう一度、身体の精密検査及び性能検査を受け、これに不合格の者は一般兵科に廻され、十月一日に入校することになるやうです。  お母さんは飛行機などと云って心配しえゐますが、死ぬ時はどんなこ…

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「雲流るる果てに」-52-

鹿野 茂ー中央大学予科ー栃木県出身、神風特別攻撃隊草薙隊、昭和20年4月28日、沖縄方面にて戦死。22歳。(「雲流るる果てに」254~255頁)    寸   言 四月十一日  朝   明朝出撃と決定  俺の名前も出た  何をする間もない  心残りは面会せず休暇もなくして出撃すること  家の人は恐らくこれ以上であらう  然しこれが戦ひの姿である  父上、母上、兄上  ここまで書くと涙が出る  姉上、妹、弟  皆元気でやれ 四月十一日  午前八時    後でトランク、荷物が届くと思ふ  今それを作ってゐる 【注】「雲流るる果てに」(戦没飛行予備学生の手記)も本稿で52篇となり、後7編(総59)で完結します。10月21日(学徒出陣の壮行会記念日)迄に終了する予定でなお続けます。

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「雲流るる果てに」-51-

岸 文一 [きし・ぶんいち] ー新潟第二師範ー新潟県出身、昭和19年10月24日、台湾沖航空戦にて戦死。22歳搭乗機・月光(二座)。(「雲流るる果てに」252~253頁)    帰子待喜    秋も深くなり裏庭で鳴く虫の音は今も変わらぬ事と思ひます。皆さんと一緒に物語った夜の数々の追憶で胸一杯になる事もあります。  屹度、御両親様始め妹弟も嘸かし私の事を片時もお忘れなく御心配下さる事と推察いたします。  五月帰省の折、妹から次の話を聞かされました。  「お母さんは兄さんの入隊以来、毎日写真の前に陰膳を供え、自分ではお茶を断ち毎晩鎮守様へ武運長久のお祈りに参拝していらっしゃる」と、私は有難くて返事が出来ませんでした。  噫、申訳ありません。私の生れる時は難産で医大で生れ、お母さんを苦しめ其の後の入院で御両親様オテルの三人で徹夜で看護下され其の慈愛の力で危機を脱し得ました。幼児入学以来土浦航空隊入隊まで家に在っても離れてゐた時もほんとに細かい処までよく手を尽し心を込めてお育て下された事が次から次と思ひ浮び、昼の訓練に疲かれ床の中で明日の仕事を考へながらも感謝の念は糸を手繰るが如くつきません。  我儘な私を今日まで骨身を削りお育て下された大恩の一片も、遂にお返し出来ず散華すると思へば、断腸の感禁ずる能はずで御座います。殊に入隊出発の前夜は歓送の宴で非常にお母さんには疲労なされてをられたのに、翌日の準備で一睡もとられず、私の打ち振る国旗のサインに「帰子待喜」と署名下され…

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「雲流るる果てに」-50-

飯沼 孟ー横浜専門学校ー神奈川県出身、神風特別攻撃隊第二魁隊、昭和20年5月11日、南西諸島・沖縄方面で戦死。24歳。 搭乗機・零式水上偵察機。(「雲流るる果てに」245~249頁)    憶ひ出の記 (4月12日)    本日朝、佐波大尉他○○○名の特別攻撃隊申渡しあり、私もその一員として加へられた。遂に正式に特攻隊員ちなったのだ。もはや何ものも無だ。何も考へるまい。純一無雑で突入しよう。沖縄ではかうしてゐる間にも、幾つかの生命が敵空母と運命を共にしてゐるのだ。  日本にだけしかない特攻隊、日本は今余裕が欲しいのだ。比島レイテ、硫黄島、西南諸島と相続いての死闘に、日本はいま疲労してゐる。この疲れを取り返すためには、西南諸島方面の敵艦船を全滅さすことだ。  午後、幾組かの飛行機○○基地へ向け進出す。館山から一緒だった高木少尉、渡辺功男一飛曹も出た。遠からず俺達も出る事だらう。人生五十年、その半分の二十五年を無事に生き抜いたことも思へば不思議なくらゐだ。子供の頃が思ひ出される。三月十七日三浦君と会ったが、これが最後であらう。三浦君も遠からず行くであらう。  突っ込む時は、どんなものであらうか?  さっぱりした何とも云へぬ気持ちだらうと思ふのだが、何となく気に掛かる。  横須賀も四月七日に帰ったのが終わりとなるかも知れない。それにしても、もう一度両親と兄弟姉妹に会ひたい。先日は母がゐないのでがっかりした。一番不憫に思はれるのは滋雄だ。あまりにもおとなし過ぎる…

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「雲流るる果てに」-49-

本川譲治 [もとかわ・じょうじ] 慶応義塾大学ー東京都出身ー神風特別攻撃隊菊水雷櫻隊、昭和20年5月11日、南西諸島にて戦死、25歳。搭乗機「天山」。    聖書を抱きて  回春の候新緑漸く萌さんとして四囲輝きを増します。  然し人の子の世界は戦乱に渦巻いて今正に、暗雲天を蔽ふかの如くであります。  先日は母上様より詳しく我が家の状況並びに都のことなどお知らせ戴き感謝に堪へません。戦局正に筆舌に尽し難く、我々も愈々最後の御奉公を致す時が参りました。幸福なる国に生れ、幸福なる家に育ち、幸福なる希望に生くる感激感謝は限りなくあります。  我らは今こそ此国のために切に祈らねばなりません。日本の隆盛、然り、天父の嘉し給ふ隆盛を切願します。「イザヤ」「エレミヤ」の言々切々たる正義の声を思ふにつけても我らは祈らねばなりません。  顧みれば私のために極めて大なる辛苦を以て色々御養育下され、唯々感謝あるのみであります。特に霊的方面に於て我が家は祝福せられあるを思ひ、如何なる外的のものも毀つ能はざる平安を感じます。  常々御両親様も仰せられし如く、私こそ幸福者の一人であると泌々思ふ次第であります。色々此時に幼かりし日の楽しき思ひ出を懐かしみます。これは人の子として当然の姿であり、決して安価な感傷に非ざることを信じます。私の恩師、多くの先生方、親戚、朋友、知人等一人一人の顔が浮びます。  一人一人御禮を書く暇もありません。呉々も何かの機会によろしくお伝へ下さい。 …

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「雲流るる果てに」-48ー

田中正喜 [たなか・まさき] ー中央大学ー東京都出身、神風特別攻撃隊第二白菊隊、昭和20年5月28日、南西諸島にて戦死。22歳。搭乗機・偵察機上練習機「白菊。(「雲流るる果てに」243~245頁)  偵察機上練習機「白菊」    姉の幸福を祈りて    父上様、永い間ほんたうに有りがたう御座いました。母上なくして愚なる一人息子正喜を斯く迄にして下った御恩に対して深甚なる感謝を致します。どうか益々御自愛下され、百歳の長寿をもお重ね下されむことを遙かにお祈り致します。正喜も父上様の御活躍に負けざるやう精進致します。  次に、長い間母上代わりに私達の御世話下さった千代子姉上様のことでありますが、正喜は姉上様に対し感謝いたさねばなりません。我身の幸福を犠牲にした姉上様をどうか幸福にして上げて下さい。これが私の以前より胸を痛めて居りました事柄であります。どうか姉上様をくれぐれもお願ひ申上げます。人間は本来その行くべき所に行くものと存じます。  姉上様は永久に田中家に残ってゐるべき方ではありません。姉上様が幸福になりますやう、どうか、正子、喜代子姉上様と共に御奔走下さい。  父上様、正喜は陛下の御為に命を捨てます。どうか御安心下さい。  最後に父上様の御長寿をお祈り致しまして筆を擱きます。  君がため御楯となりてこの命  捨つべき秋の来るうれしさ  父上様                                 正喜拝 【追記】      …

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「雲流るる果てに」-47-

中西斎季ー慶応義塾大学ー和歌山県出身、昭和20年4月29日、神風特別攻撃隊神雷部隊第九建部隊で出撃、南西諸島(沖縄方面9にて戦死。(「雲流rる果てに」242~243頁)      陣中日記    三月×日 硫黄島陥落。日本兵玉と散る。嗚! 散る桜、残る桜も、散る桜。   三月×日 東京の兄の家、空襲で焼失。生死不明。  三月×日 吉田さん(註・恋人)より久しぶりに便りあり。兄の一家無事なるを知りてホッと安堵。学生時代の楽しい写真同封しあり、昔をしのんでしばし懐かしむ。  三月×日 死は決して難くはない。たゞ死までの過程をどうして過すかはむづかしい。これは実に精神力の強弱で、ま白くもなれば汚れもする。死まで汚れないままでありたい。  四月×日 吉田さんより結婚の申込みをうく。彼女がわれを愛してくれる以上われも亦彼女を愛す。しかれども、わが未来はあまりに短し。つゝしんでその申出を断るより他になし。  四月×日 久太郎ついに応召。齢五十なり。国のために齢は問はずといへども、兄征ける後の家を想ふ。姐さん、佐和子、由紀子頑張って下さいとひそかに祈る。  四月×日 人間死ぬ死ぬと口に出せるうちはまだ本当に死ぬといふ観念が迫って来ない。いよいよ明日突っ込むといふ日になって、はじめて死ぬのかといふ気になる。いやそれでもまだ他人事のやうな気がしてゐるが・・・・・・しかし明日は突入する。さうすればたしかに死ぬ。 【注】 上記「散る桜 残る桜も 散る桜」は名句として戦後も受け継がれ、…

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「雲流るる果てに」-46-

石橋申雄 [いしばし・のぶお] 東亜同文書院ー神風特別攻撃隊第一筑波隊、昭和20年4月6日、沖縄周辺輸送船団攻撃中、戦死。搭乗機・零戦。25歳(「雲流れる果てに」235~238頁)      絶  筆        遺 書    拝啓 機動部隊来襲と共に数十年来の大雪寒気殊の外でありましたが、大雪の消ゆると一緒に、はやくも木々も芽を吹きはじめ、春近しの感が深いものがあります。  種々御心配の御様子でありますが、お陰を以て壮健軍務に精励してをりますので御安心の程願ひます。尤も斯るドタン場に立至り、生等の途は明かに決して居ることゝ御覚悟あられますやう、子として親に向って斯様な事は申上げにくいのではありますが、父上ならば明白に御推察下さると存じ、又それを喜んで下さることゝ存じますので一応申上げておきます。  今のうちに思ってゐることは何でも言うやうにとのお言葉、誠に有難く、斯程までに思って頂きながら、子として何等孝養も尽くさぬまゝ、と考へる時、些か後髪をひかれる思ひが致します。兄弟のうち小生一人のみ手塩にかけて頂き、且又最高学府までやって頂いて、今斯うして海軍士官として下っ端ながら人の上に立つ身になって過去を振り返って見ますときに、苦労らしい苦労もなく、又苦しかったその当時思ったことも今は代えって懐かしく、想ひ出深く感じられます。    同文書院は勿論、小学校の折kらも友人にも恵まれ、今斯うして海軍生活をおくってゐる間にも同僚との間も和を以て第一とし、友人の誰彼も好感を…

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「雲流るる果てに」-45-

横山輝衛ー早稲田大学ー青森県出身、昭和20年5月6日、南西諸島にて戦死。搭乗機・艦上攻撃機天山。(「雲流るる果てに」234~235頁)   ▼海軍特有の「棒倒し」    父の遺志を継いで    写真有難うございました。実物より大分よく撮れてゐますね宏も十二月入院するとなると全くいゝ記念でしたね。  親子四人そろふことは恐らくもうないでせう。併しいよいよ御恩返しの時が来ました。恐らく宏も同じ気持ちだらうと思ひます。兄弟揃って海陸に、父上の御意思を継ぐのはこの上もない喜びであります。  私も愈々本格訓練に入り、全くぼやぼやしてたら煙草もすへません。この土曜日には分隊対抗の棒倒しがあります。絶対勝ちます。  おじいさん如何ですか。よろしく  (三重航空隊より) 【注】「雲流れる果てに」シリーズ掲載も全54篇中残り11本になった。彼らの想いを細大もらさず続けます。

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学徒特攻士官の遺した短歌

昭和18年年、多くの学生がペンを銃に持ちかえ、飛行学徒兵となり大空に散って逝った。彼らは美しい故郷を想い、母を慕い、妻子を慈しむ歌を数多く残していった。あれから65年、読む程に胸に迫る。その幾つかを紹介しよう。    「雲流るる果てに」遺稿の中から 古川 正宗(大阪外語ー奈良) 雲湧きて流るるはての青空の その青の上我が死に所 故郷の母の便りに強きこと 言ひてはをれど老いし母も 二十四の我が命を断つ日なり 雨あがりつつ青空の見ゆ あと三時間の我が命なりただ一人 歌を作りて心を静む 西田 高光(大分師範ー大分) この土のつらなる果てに母ありて 明日の壮挙の成る祈るらん 小城亜細亜(立教大ー東京) ただ征かん生命を受けて二十年 晴れて空への御召しありせば きみ想うこころは常にかわらねど すべてを捨てて大空に散らむ 石川 延雄(法政大ー岡山) 身に浴びる歓呼の中に母一人 旗を振らず涙ぬぐい居り 人混みに笑みつつ送る妻よ子よ 切なさすぎて吾も笑みつつ 人前に吾見せざりし涙なれば 夜は思うままに泣きて明しぬ 遠藤 益司(日本大ー福島) とても世に逢い見むことの難ければ 夢こそ今は頼みなりけり 春されば祖国のさくらに魁けて 咲いて笑って散る吾身かな 緒方 襄(関西大ー熊本) いざさらばわれは栄ある山櫻 母の御もとに帰り咲かなん 宅島 徳光(慶応大ー福岡) たらちねの母わびすまふよみのくに いくさの…

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「雲流るる果てに」-44-

高久健一 [たかひさ・けんいち] ー東北大学ー秋田県出身、神風特別攻撃隊梓隊、昭和20年3月11日、内南洋ウルシーにて戦死、22歳。 (「雲流るる果てに」227~233頁)   土浦日記その他    九月十日 (昭和18年)    九日、駅前の感激を後に11時土浦着。  練習生娯楽室にて父上と叔父上に面会、一時間を過ごした。門までお送りしてその後ろ姿に固き決意を誓った。夜、釣床をかけたらうまくゆかない。しかし一生懸命やる。八時半就寝。    九月十四日    今日は当直学生だ。俺がエゴイストでない限り、班の者に徹底的に命令を下すことが出来ねばならない。    九月二十五日 (土)    午前八時第一練兵場に集合。分隊長より科別申渡しあり。俺は勿論飛行。しかも二ヶ月基礎訓練三ヶ月目十二月には飛行だ。  俺は今日決意の至難を知った。身振ひする。  決意もまたやはり激しい過程の中に生まれるものであらう。俺は希望と懐疑に満ちてゐる。  俺の心は河口も判るだらう。  決意! 決意すること! 訓練への無! 決意!    九月三十日 (木)    父上より速達にて東北大入学に関する件あり。われ大学に未練なし。然れども休学になるとは夢想だにしなかった故、新たなる勇気が湧いて来た。母の加護に深い感謝を覚ゆる。    十月一日    九月三十日付を以て海軍予備学生を命ぜらる。俺は勉めて無言と実行を決意した。俺の出発は始る!  国に殉じ得る。その自信は我…

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美しさを護るために死ぬ

慶大出身の神風特攻隊員が出撃にそなえた猛訓練中、日記に書き残した文言である。吉田満の遺稿集『戦中派の死生観』から引かせてもらった。との書き出しで松本 章男氏が東京新聞・「今週のことば」(8・14日付)で紹介した。この文言については本ブログでは既に紹介済み(注)だが再録しよう。  私は日本をほんとうの意味の祖国として郷土として意識し、その清らかさ、高さ、尊さ、美しさを護(まも)るために死ぬことができるであろう。 林 憲正  太平洋戦争とは何だったか。みずからの意志に反して戦闘行為に駆り立てられた学徒兵の遺書が、その体験を血のような肉声で伝えてくれる。  戦後六十五年が経過した。青年は何のために戦ったか。国家の戦時体制に大義名分を見出せなかった。すべてと言ってよい学徒兵が、郷土と肉親を護るという目標のためにのみ自己を止揚し、戦死している事実に、現在なお衝撃を受ける。京大出身の林 尹夫(はやし・ただお)も、「おれが血肉をわけた愛(いと)しき人々と、美しい京都のために}と手記にしるして、大空に散っていった。  それぞれの郷土をそれぞれが慈しむ。胆に銘じたい。  【注】林 憲正中尉の遺文の元典は本ブログにシリーズで転載している、「雲流れる果てに」である。 クリック→http://38300902.at.webry.info/201001/article_13.html

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「雲流るる果てに」-43-

小久保節彌ー函館高等水産学校ー愛知県出身、昭和20年4月16日、南西諸島・喜界島南方にて戦死、26歳。搭乗機ー零戦。(「雲流れる果てに」225~226頁)  わが父母、わが故郷  我が御両親様は慈愛深き御両親であった。今にして想へば不幸の数々慙愧にたへぬ。二十有余年の間斯くも立派に育てゝ下さった御両親、誠にありがたう御座居ました。  私は日頃父上の言はれる大義に生きます。姉上に対して私は実に不遜な弟であった。無礼の段、平にお許し下さい。御両親へ孝養の程心よりお願ひします。  弟に対してはもっともっと兄らしくしてやりたかった。然し、彼も今は立派な軍人たるの訓練を受けてゐる。俺の云ふ誠を忘れずに軍籍に励むやう祈る。弟の武運長久を祈る。  妹よ、あくまで御両親に孝養をつくしてくれ。末女のお前をおいて御両親を看てくれと頼む者は他にない。純情で誠を以て世を渡れ、健康に注意されたし。    祖母様    長い間わがまゝを言ひ然も祖母様は何でもはいはいときいてくれました。どうか御健康に注意されて何時までもいつまでも御無事にお暮し下さい。    我が故郷の何と美しきことよ。四季とりどりの花は咲き、鳥は歌ひ、山あり、海あり、太平洋の雄大なあの土用波の光景が眼にうかぶ。  椿は咲く、紅い花が咲く。その下で図画を書いたこともあったっけ。ゑのぐ筆をなめなめ拙い絵を書いた。  或ひは夕野田に鮒釣に行った。稲を荒して叱られたこともあったっけ。  海! そのもつひゞき、何と雄々しき事よ。…

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「雲流るる果てに」-42-

青木三郎 [あおき・さぶろう] 横浜専門学校ー神奈川県出身ー昭和20年7月13日、鳥取(米子)方面にて戦死。二十三歳、搭乗機・彗星。(「雲流るる果てに」222~224頁)掲載。    私は幸福だ(学生時代の日記)  昭和18年2月9日  母が生きてゐると言うことがどんなに心強いことであらうか。  母の本当の心を何故早く知らなかったのであらうか。  母は此の世の中に一番の強い母だ。  母の愛情を思ふと今の自分を怒りたくなる。兵隊にゆく迄の僅な月日。私は母に対して此の世に於ける最大の孝養を果さねばならぬ。  それは当然なことであり誰もがなすべきことである。  それ故に何と幸福な嬉びの多いことであろうか。 私達兄妹は母の余りにも大きな愛情に気が付かな過ぎはしないだろうか。 母は性格的には非常に弱い人間だった。その弱さは何が故であろうか。 それは自分達兄妹を育てる事に夢中に過ごして来たため常に内部的に心が向かったからであろう。 そして弱いが故に尚更我が子に対して母は盲目的であつた。 母を思ひ、或は母に対するとき、私の心は常に清純な感謝にある。    お母さん  母さん 私は幸福だ。    つかれたる母がとほときみからだに    われしらずしてけふまで育つ   昭和18年6月14日   母に私はどう話したら良いか先程から間誤々々してゐた。  日頃気の弱い此の母は、私のこの願をきいてくれることだらうか。  それはどうだらうか、母は驚く程…

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「雲流るる果てに」-41-

鷲見敏郎 [わしみ・としお] 大阪商大ー兵庫県出身ー海軍少尉、昭和20年4月6日、神風特別攻撃隊第一七生隊に属して出撃、沖縄方面にて戦死。第14期飛行予備学生、24歳。(「雲流るる果てに」205~208頁)   断   片 二月二十二日(木) 出撃命令下る。曾て彼の日午前五時、肉弾三勇士は散げ華す。 総員集合 人選あり。 特殊任務に殉ずる数十名の姓を読み上げる内、小生の姓名を呼ぶこと三度 ジッと顔を見つめぬ。 貴様の生命は俺が貰った。 分隊長の閃く瞳 食ひ込む瞳 瞳 瞳・・・・・・・・・・・ 熱願冷諦 堂寂の境に直あり。 愛機は「四三三」と決定。 三月四日(日) 外出 父上の誕生日。 最初にして最後の孝養の積りにて、父母 祖母 菅原祖父各々へ徴志 電報為替にて家を驚かす。 三月十六日(金) 快晴 風強し。昨夜 入歯の抜けた夢を見た。今日は自重しよう。 編隊並に定着訓練。 総員起し 六時より夕暮五時近く迄ブッ通しの愛機作業は楽しく 疲れる。 三月十八日(日) 昨夜の夢 母上に零戦を見学させ説明して居る所 又明君(甥)が母ちゃんに叱られてべそかいて居る所 甚だ愉快。飛行機が夢により見るやうになったのは それだけ 空の技術を身につけ得し所以か 今日ぞ 最後の外出。   “煙草”  海兵団で覚えた味 今も捨て得ず いら立った精神を落ち着ける時 疲労困憊せる時等 確かに鎮静の効果ありと認む 特に愛機搭乗の前。   …

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「雲流るる果てに」-40-

永尾 博 [ながお・ひろし」 西南学院ー佐賀県出身ー神風特別攻撃隊第三草薙隊、昭和20年4月28日、南西諸島にて戦死。搭乗機・九九式艦上爆撃機、22歳。(「雲流るる果てに」203~204頁)    靖国の社頭で    1.生を享け22年の長い間、小生を育まれた父母上様に御礼申上げます。  1.親不孝の数々お許し下さい。  1.小生の身体は父母のものであり、父母のものでなく、天皇陛下に捧げたものであります。小生入隊後は無きも    のと御覚悟下さい。  1.小生も良き父上、良き母上、良き妹二人を持ち心おきなく大空の決戦場に臨むことが出来ます。  1.父上も好子、寿子を小生と心得御育み下さい。  1.母上、父上の事末永く呉々も御願ひ申上げます。  1.父、母上の、また妹の御健康をお祈り致します。   父さん 大事な父さん   母さん 大事な母さん   永い間、色々とお世話になりました。   好子、寿子をよろしくお願ひ致します。   靖国の社頭でお目にかゝりませう。   では参ります。お身体お大事に。        ▼九九式艦上攻撃機 【注】赤字部分「天皇陛下に捧げたもの」に眉をひそめる向きもありましょうが、当時は常套句。むしろ「死」の枕詞であった。天皇陛下のため(悠久の大儀)といえば後に「死」という文言が続いたもの。  枕詞といえば=主として歌に見られる修辞で、特定の語の前に置いて組となり、語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のことである。

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「雲流るる果てに」-39-

熊倉 高敬 [くまくら・こうけい] 専修大学ー栃木県出身ー神風特別攻撃隊第二筑波隊、徳之島東方の機動部隊、昭和20年4月14日戦死。搭乗機ー零戦 22歳。(「雲流るる果てに」195~198頁)    痛  恨    四月五日(昭和20年4月5日)  〇六三○、整列、愈々出撃だ。  気象通報の来るのを待って飛行場待機、皆写真撮影、これで筑波とも、この世ともお別れである。  明日の総攻撃に参加すべく、〇九四○発進、総員に見送られて二十一機離陸、上空を暫らく旋回進路を東京上空に取り、一路鹿屋空に向ふ。途中、天候良好ならず。  九州に入って東海岸を陸地にまたがって飛ぶ。富高の飛行場を眺め、暫らくするうち笠の原上空にかゝり、鹿屋上空に至る。一回して滑走路に着陸、砂塵が凄い。全機無事着陸して集合。  六時半日没となる。暗いきなかをこゝ国民学校の教室へ引き揚ぐ。整備員徹夜で整備、明日の出撃の用意をなす。着のみ着のまゝ寝る。皆頭を揃えてーー明日の出撃、轟沈を夢に見つゝ。れる前、洗面しに出たところ林大尉に会った。珍しい処で会って久し振りに昔物語りをする。なつかしいものである。成田も居った。  四月六日    良くねた。小川の流れで洗面、朝食を済ませて八時より中島中佐の特攻隊員に対する話あり。九時より通信長と電話略号及び連絡方法について協定す。  一〇時、一寸の間を見て最後の手紙を走り書きし、八重桜の花を二つ三つ封入して荷を整備す。もう何も思ひ残す事はない。数刻…

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「雲流るる果てに」-38-

佐藤一馬 [さとう・かずま〕慶応義塾大学経済学部ー東京都出身ー昭和20年4月15日、佐多岬沖南方海上にて戦死。搭乗機・天山、23歳。(「雲流るる果てに」201~202頁)     陣中の茶      遺 句 君も来や梅も咲きけり匂ひけり 残春の香眼に滲みたり友思ふ 我が魂の生所知りたり春の宵 大燈に続け我が魂春はゆく 八重櫻散りてまばゆき路を行く      日 記 昭和十九年三月二十九日  初メ「クラブ」ニ四人集フ、サスガニ寂シカッタ。何ハナクテモ多勢ハヌ事ニハ賑ヤカデナイ。中食ノ時ハ六人ニナッテヰタ。帰リギハニナッテデハアルガ「オ茶」ヲタテテ皆ニフルマッタ。半年振リデ所々忘レテハヰタガ、手順ヨクタテラレタニハ山村先生ノ教育方針ノオ蔭デアラウ。実ニ落着イタ気持デアル。  矢張リガラクタ者デタルヨリモ、一品デモヨイカラ名アルモノヲ手ニシタイト思ッタ。航空隊ニ奉ズル者トシテ、カサバル物ハドウカト思フノデセメテ手杓ナリトモ。  水差モ揃ハヌ。鉄瓶デ普通ノ火鉢他ノ道具モオ粗末ナ次第、又雑然トシタ宝デ急ニカシコマル事ニ何カソグハヌモノヲタテル前ニ感ジタガ、イザタテル段ニナルト決シテソノヤウナ、チグハグナ気持ハ毛頭感ゼズ、ピッタリトシタ気持デ湯ヲツギ茶ヲタテル事ガ出来タ。  夕食。練習生ニ飯ヲ分ケテヤル。喜ンデヰタ。風呂でハシャイデル事、何ガオカシク、嬉シイノダラウ。外出点検ハ実ニ不愉快コノ上モナシ。一部ノ学生ガマイテ行ッタ種子、ケシカラヌ事ダ…

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「雲流るる果てに」ー37-

根尾久男 [ねお・ひさお] 早稲田大学ー富山県出身、神風特別攻撃隊 梓特別攻撃隊ーウルシー在泊の機動部隊を攻撃、昭和20年3月31日特攻死、搭乗機・銀河 25歳。 (「雲流るる果てに」199~200頁)   知らざるを悔まず      感 想    父上様久男入隊に際し、送別の宴を贈りしその席上、「久男は私の意に叶へり」と言はれしを、未だに唯一最大の誇りと致して居ります。幸いにして久男、御楯として忠死致す秋至らば、その折こそ、「久男は意に叶へり」とお喜び下さい。唯一の願ひであります。神前に御燈明を点してお祝ひ下さい。久男は既に二十六才となりました。人生の半ばも過ぎたるに、世間を知らず、女を知らず、金銭を持たず、今はその信条の貢献に満足してゐるだけです。お笑ひ下さい。      眞鍋中尉殿  (註・眞鍋中尉も後に戦死)    戦友としてお願ひ致します。私若し戦死致すことあらば、その状況を可及的速かに故郷の老父に知らせてやって下さい。又遺品の整理に当っては、この感想録及び黒表紙の手帳、それに写真類及び軍刀は必ず父の許に直接お届け下さい。他の衣類等は適当にお願ひ致します。金銭を始め消耗品の類は、他の戦友とお分ち下さい。勝手な事ばかりお願ひしてすみません。  只々心残りは、去日水交社にて肉を喰ひし時、何事か罵りしとか、幾ら考へても思ひ出さず、若し君にて意を害せしことあらずやと恐縮に耐へず。私元来小心にして何も出来ない者でしたが、他人を恨み、憎み、嘲ひし事は一度もありません。…

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「雲流るる果てに」-36-

藤田暢明ー東京農大ー徳島県出身、神風特別攻撃隊第六筑波隊、昭和20年5月14日、種子島にて戦死、海軍少尉、23歳。第14期海軍飛行予備学生。(「雲流るる果てに」193~194頁)    遺   書  本5月11日、鹿児島の鹿屋基地に転進予定の所天候不良の為12日に延期され候。さらばと別れし士官室に帰れば、御両親様よりの親書と、この大戦局の荘厳なる事実の中に「我」を見出したる喜びと併せて、特に天下一の幸運児なるを痛感致居候。筑波以来三ヶ月、苦楽を倶にせし同期の櫻の顔色益々明るく、意自ら通じ明朗且天真爛漫にて幸福なる一瞬を意義あらしめ居候。而して議を論ぜず将に淡如水、心境如斯次第に御座候。御両親様、睦重は優しい質素な貞淑なる暢明の妻たる故大事にしてやって被下度候。父上様、母上様、永い間お世話になりました。何時迄もいつまでも次の世も亦来る世も父上様、母上様の子にして下さいませ。 では御両親様さやうなら、暢明元気で征きます。藤田家の隆昌と皆様のご幸福をお祈りします。       忠   孝 昭和20年5月11日    大日本帝国海軍 神風特別攻撃隊筑波隊 第10中隊第2区隊長 海軍少尉 藤田暢明    身長 1米73糎 体重 18貫9百匁 胸囲 97糎 御両親様

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特攻出撃直前 兄の姿が

コロンビアから出されている“音の楽園”という小冊子を見てあるページに釘づけになった。ドキュメント「特攻」というDVDだ。そこには写真に(左イラスト参照)「海軍神風特攻 第七 第九金剛隊が爆装零戦20機 彗星1機で出撃した」と書きこまれている。購入して見る。ナレーションは「12月15日海軍特別攻撃多隊出撃 護衛空母マーカス・アイランドに海面すれすれで突入」と流す。   兄・神島利則中尉のこと  これまでの記録によると彼の出撃模様はこうである「1945(昭和20)年12月15日、神風特別攻撃隊・第七金剛隊、フイリピン・セブ基地0630出撃、爆装零戦3機、直援機2機 ネグロス島方面輸送船団を攻撃するも全機未帰還戦果不明」というものだった。  画像を繰り返し凝視すること2~3度ほんの0.1秒、横顔を見たような気がした。21歳、淡々とした姿に唯ただ衝撃が走る。「別れ」を惜しんでから67年、こみ上げるさまざまな生き様に情感のやり場を失った。  今日は怒りと涙の一日になるに違いない。彼が好んだ「別れのブルース」と「別れ船」をバックにあの戦争は何だったのか反芻したい。 【注】12月15日(昭和19年)、米軍はルソン島間近のミンドロ島上陸作戦を進めてきた。上陸用兵員は二万七千名、これを邀撃する日本軍は二個中隊に過ぎなかった。サンホセに向けて北上するミンドロ島周辺の攻略部隊の索敵攻撃に第7、9、10金剛隊、草薙隊が出撃し、大きな戦果を挙げた。すなわち第七金剛隊爆装(250キロ)零…

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「雲流るる果てに」-35-

溝口幸次郎 [溝口・江二郎] 中央大学ー静岡県出身ー神風特別攻撃隊神雷第一爆撃隊、昭和20年6月22日、沖縄方面にて戦死。22歳。(「雲流るる果てに」189~192頁)    追   憶    美しい祖国は、おほらかな益良夫を生み、おほらかな益良夫は、けだかい魂を祖国に残して、新しい世界へと飛翔し去る。 昭和20年6月6日。        麦刈る人々    私の父上も、私の母上も、農に生きぬいた偉い方です。両親の若い時の苦闘を聞くと、本当にすまない気がします。山間の田舎道を荷車を引いて、人が行く。飛んで行って、車の後押しをして見たい気が湧いて来ます。もう何のお手伝ひする事も出来ない私の不幸をお許し下さい。どうぞ御身体御大切に。        地震に倒れし我が家      我が家はこはれたれども父祖の血を   大空に生きて国守なり   我が家のおもかげなくも我が魂は   永久に我が家にかへり来ぬべし        綱 干 し    “現在の一點に最善をつくせ”  “只今ばかり我が生命は存するなり” とは私の好きな格言です。  生まれ出でゝより死ぬ迄、我等は己の一秒一刻に依って創られる人生の彫刻を、悲喜善悪のしゅらぞうをきざみつゝあるのです。私は一刻が恐ろしかった。一秒が重荷だった。もう一歩も人生を進むには恐しく、ぶつ倒れさうに感じたこともあった。しかしながら、私の23年間の人生は、それが善であらうと、悪であらうと、悲しみであらうと、喜…

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